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photo:小林禎弘

柳原睦夫展Mutsuo YANAGIHARA

align:right;">葎</p>YANAGIHARA, MUTSUO1934

11/13 Sat. 〜 28 Sun. 2010

わが毒
 「貪欲と嫌悪と迷妄をすて、煩悩のむすび目をやぶり命を失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め」…なにやらえらい禅僧の言葉のようだが、これはスッタニパータという西紀前のもっとも古い仏典にある言葉である。ブッダの肉声にもっとも近いとも言われている。韻文で美しく詩のように記されているという。

 「犀の角のようにただ独り歩め」というのは、まず自己を恃め、自分に頼れということであろう。変転きわまりないこの世にあって、自分の意志と判断で選択を行えということを言っているのだろう。まず自己に頼れ、そして迷うときは法(真理)に頼れと、死ぬ前にブッダは言い残している。個から出発し、個の精神のありようをまず求めているのは、ギリシャの思想にも通じて哲学的である。犀の角は冷ややかに覚めていなければならないのである。

 仏教で三毒といえば、貪欲(とんよく)と瞋恚(しんに)と愚痴のことをいう。上述の言葉と符合する。貪欲はむさぼり、瞋恚はいかりうらみ、愚痴は理性の欠けた状態、愚昧というほどの意味である。これらは人が本来持つ仏性をそこなって止まないものであって、特に気をつけるべしと言われている。しかしこの三毒にやられない人などいないだろうとも思われる。全身これ三毒といった人間を私たちは自身のうちにも外にも見るのではないか。ひいては人間の集団、国家社会にも見出されるものであることに気付かされる。ふり返れば人間の歴史はこれらの毒にほとんどやられっぱなしの歴史だったように思われる。ただ計算のわからぬ愚昧と狂信がいまも私たちを根底からおびやかしている。現代は不義と醜悪、愚昧と不合理があまりにも露わなのではないか。

 毒にやられている最中は、我も人も毒気がまわっていることに気付かない。破滅と死へ向かってひたすら毒にしびれ、酔うということがある。警鐘を鳴らす人が要るわけである。覚醒をうながす人がいなければならないのである。なにか話のスジが透けてきたようだが、今展の柳原睦夫という人にそこまでの大任を背負っていただきたいというわけではなく、ただ毒の効能書きにこっそりと書いてある破滅や虚無を、なんとか押しとどめるものとして宗教とか哲学芸術の価値があるのなら、その芸術に半世紀あまり従事してきた柳原その人が養う毒の種類と、その毒の、洒落ではないが止揚のしように深甚な興味を覚えるのである。柳原ほど自己のうちの毒を凝視し嫌悪し、あるいはよく耐え、わが毒として飼いならしている人はいない。毒の成分とさじ加減は異なっても、いまや八木一夫の衣鉢を継いで陶芸家では唯一の人であろう。自家中毒を起こすまいかと心配したりするが、まあそこは命ながらえておられるので心配無用なのかもしれない。毒を食らわば皿までも。毒をもって毒を制す。毒にも薬にもならぬものを作っても役にも立たぬ。清く正しく美しいだけで芸術の真骨頂は示せるのか。

 先生に作を以って何を現さんと欲す?と問えば、こう答えるだろう。わが思惟なり、わが毒なりと。続いてわが毒とは如何?と問えば、即ちわが批判なりと答えるだろう。毒、毒と言ってきたが、それはつまり先生の批判精神のことで、筆者はそこに先生の芸術の人としての値打ちを認めるのである。その批判精神は、正気の、理性の、知性のものであって、そこから高度なユーモア、諧謔、パロディーといったものが派生している。さらに作品から作品をつなぐものとして、先生のロゴスが介在している。先生の場合、ロゴスが創作を支えている。すなわちロゴスが感覚を呼び起こし、研ぎ澄まし、ものを生さしめる。生したのち、再びロゴスがプロセス的なものとしてロジカルに働き、さらなる感覚を呼び覚まし、またものを生さしめる。直観的なものと直観的なものの途中をロゴスが媒介しているのである。先生の中ではロゴスと感覚は対立するようでいて結びついている。かくして先生の半世紀を越える作品世界は、変転しながらも進化と一貫性を見せながらつながっている。芸術の人としての自己同一性が堅固であるということである。それは先生の仕事全体に価値を与えるものである。ロゴスに裏打ちされた批判精神を持つ陶芸家。その毒は食えないが作品となれば毒を帯びつつ妙味となる。ちょっとこんなやきもの屋さんは見当たらないと言った所以である。

 「今さら参禅するわけにもいかんしなあ」と先生はごちていたが、今展では茶の器物を出していただく。「どうも〝冷え枯れる〟ということがよくわからんけど、君わかる?」と筆者ごときに真顔で聞く。青年のような好奇心を失わない人である。筆者は冷え枯れるということは死を暗示しているのだと思う。死を包含し同時に死を超克するといった境地ではないか。それは誰も獲得できない境地で、茶の創業者たちのなかで誰かは知らねど誰かは大丈夫のままその境地に住んでいたのかもしれないが、凡夫には死の刹那にやっと到達できるような境地のように思われる。「自分は正覚を既に得ているので、再びこの世に生まれ変わることなし」とブッダは言っている。突き詰めれば無ということか。しかしとどのつまりは無ということだけでは、なにか納得できないものが残る…。

 余計なことを言っているが、先生はこの度も先生の批判精神を発揮するだろう。犀の角の先から見やる茶とは先生の目にどのように映るのか期待しつつ云爾(しかいう)。

 

1966 渡米、ワシントン大学講師(~1968)
1970 ラスター釉使用による<金銀彩>シリーズ
1971 ファエンツァ国際陶芸展ラヴェンナ市商工会議所賞
1972 渡米、アルフレッド大学、スクリプス大学助教授
     また各地で講演、陶芸指導(~1974)
1975 <空>シリーズ
1978 現代日本の工芸(京都国立近代美術館)
1980 アメリカ芸術奨励資金を受け渡米、各地で講演、陶芸指導
1984 大阪芸術大学教授(~2006)
1985 <沓花瓶>シリーズ、<オリベ>シリーズ
1986 前衛芸術の日本1910-1970(ポンピドゥセンター/フランス)
     <笑口壺>シリーズ
1987 1960年代の工芸‐昂揚する新しい造形
     (東京国立近代美術館工芸館)
1993 現代の陶芸1950-1990(愛知県美術館)

館)

1995 日本のスタジオクラフト
     (ヴィクトリア&アルバート美術館/イギリス)
1996 <ペロット瓶>シリーズ
1998 京都市芸術功労賞
2000 京都府文化賞功労賞
     <縄文式・弥生形壺>シリーズ
2003 柳原睦夫と現代陶芸(高知県立美術館)
     日本陶磁協会賞金賞
2004 <反器>シリーズ
2005 京都美術文化賞
2007 <井戸>シリーズ、OWLの栖む井戸など

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