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photo:小林禎弘

金憲鎬展Hono KIM

白の向こう

1/12 Sat. 〜 27 Sun. 2013

 老子さまは、上善は水の如しという。水は、万物すべてを利してなお争わず、衆人のにくむいかなる低きへも流れ行きそこにあると。そういえば、私たちのゆく末を左右しようと窺っている、あの小太陽を冷やしてくれているのも水である。冷却の、水よりほかに私たちは手段を持たない。焼け石に水ではないが、原始的なことである。ここでも科学の自然に対する決定的な敗北を見る思いがする。また水はいかなる容れ物にも従う。そして気体から固体へと往還自由である。この世で最も融通無碍なる存在だといえる。借りて老子さまは、水のような人を人間の理想、善き人の最上にたとえているのだろう。水に教えてもらえと言っているのである。
 思えば、土にもそのような側面があるのではないか。土には可塑性という一大属性がある。土は水を含んで粘土となる。叩けばへこむ。伸ばせば伸びる。挽き上げようと思えば手指に同伴して自在である。鋳込めば型にぴったりと添う…。上善はまた土にも似てということか。
 もう十年以上も前のことだが、故人山田光(走泥社同人で創業者の一人、大正十二年生)がやって来て、つくづくと言ったことがある。話の前後は忘れたが、当方が何かさかしらな口をきいたような覚えがあって、それに対して先生は、「土はな、可塑性があるしなあ…、あれはどないにでもなってくれる」とだけ言われた。すかされたような気がしたが、先生に他意はない。手のひらで土を叩くふりをしながらつくづくとそう言われた。先生は先生の悩ましい時期、自分は、土のなかへもぐり込むような気持ちでこの世界に入っていったという。もぐり込むとはいかにも山田光らしい言いようである。そして土にまつわる世界が上善であるならば、道の先に希望とか救いのようなものを感じていたことだろう。実際先生は、幸福な創作の時間を過ごしたように思う。土の恩沢に浴しながら、その土と同行二人、感謝しながら身をあずける。深い自省をおのれに促しながら。その姿勢には上善たる土にかなう自分であろうとするきびしさがあったように思う。先生は親鸞の徒でもあった。信仰にも似たものを土に仮託していたのかもしれない。かくにも陶芸家にとっては、土という素材は、余材をもって替えがたいものがあるのである。そこが他ジャンルと一線を画するところなのかもしれない。
 金憲鎬の場合も、土との得がたき出会いを果たした人と言えるのではないか。彼の作品ほど、土が持つ無限の自由な可塑性を感じさせるものはない。ジャジー、カラフル、土自体が自由を謳歌しているようである。遊んで自由といった、こういう人は稀有である。しかしながらその裏には、山田同様、真摯な葛藤と彷徨があったことだろうと思う。悩ましくも模索する自己とその同一性。しかし、なにか上善なる価値に少しでも近づこうとする向上心が、彼の今の作品を生さしめているのだと思う。土もまた水に似て上善なり…。金憲鎬も善きもの善き人にめぐまれたからこそ今があるように思われる。そして彼という人間も上善だったということであろう。やきものをすなる人と享受する人すべてに幸あれ。-葎- 

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