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  • 〝碧釉立脚壺〟 55.0cm.tall
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photo:来田猛

柳原睦夫展Mutsuo YANAGIHARA

Submersion and Surfacing

6/14 Sat. 〜 29 Sun. 2014

 当たり前の話だが、人間は睡眠と覚醒をくりかえして生きている。筆者は寝つきの悪いほうで、それでもようやく寝入りばなに近づくと、快感とともにどこかへすーと落ちていくような安楽な気持ちになり、意識がフェイドアウトしていく。自分が自分でなくなる瞬間ともいえる。肉体的にどっと疲れたときとか、精神が平穏なときは、夢も見ないのではないか。泥のように眠るということがある。一方、体調が悪いときや、精神が不調なときなどは、あまり有難くない夢などを見て、夜中にガバとはね起きることもある。そんなときは、うつつの世界に戻って来られたことにほっとすると同時に、さっきまでの自分は、この世ならぬ異界にいたような気持ちがしてくる。そしてしじまのなかで、胸に心臓の鼓動を聞くとき、生きていることをあらためて実感したりするのである。いま自分はかろうじて死なずに生きているといった感覚というか…。眠りというものは、その底のところで死と接しているようにも思われる。
 人は眠りによって、共通の世界から自分だけの世界に向かう。しかしそれはなにも眠るときだけに限らないだろう。失意のときとか、重い病気に罹ったときなど、自分だけの世界に向かうということがある。いや宴席の歓楽とか、繁華の巷のただなかにいても、周囲の景色が急に遠のいて、ふっと失心するかのように、自分だけの世界へ落ち込んで行くのを経験することがあるのではないか。浮世である共通の世界から、自分が抜け落ちて、自分だけの世界へと自分が落ち沈んでいく。その落ちていく先にはなにがあるのか。私たちは、共通な世界と自分だけの世界のあいだを往還する。覚醒と睡眠のそれのごとく、人生においては、この二つの世界以外に私たちには居場所がないということである。厳然たる事実であろう。
 毎日の眠りにおいて、私たちは自分だけの世界に帰っていくのであるが、その眠りは死に接しているようであり、永遠の眠りにおいて、私たちはもはや共通の世界に帰って来ないのだろう。私たちの生の底には、決して剥がせない起請文のように死が貼付されてある。もっともその底の底を越えた向こう側には、たましいの問題、実存の問題、形而上の問題があるとも言える。そう考えれば、没落して行く自分だけの世界には、最終的な底がなく、無底なのだと言えるかもしれない。しかしながら生ける私たちには、やはり死はつねにその底にあるのである。この不可避的に可死的であることの運命。すなわち死すべき者どもである私たちは、永遠の眠りにつくときに共通の世界を失うということにおいて、究極的に、まったく自分ひとりだけになって死んで行くのである。かくて人間は、絶対的に孤独であり、自分だけの存在なのである。
 しかしながら、絶対的孤独の底での眺めというものもあるだろう。そこでしか見えないもののことである。例えば、真の芸術家は、絶対的な孤独の底からものを眺め凝視することでなにかを物語る人のように思われる。死すべき者として、孤独の底まで降りていくということはその場からものを見るためである。そこで彼は自己自身に立ちかえり、自分だけの世界において、死に近づいたり遠ざかったりして、死の練習のようなことをするのだろう。そしてそのような練習を重ねて、本質的なものが見渡せるようになるのではないか。あるいは直観によってものを看破するようになる。そのとき、自分が自分にかえることによって、すべてのものも、もの自体に立ちかえって、彼の目に映るようになる。すなわち主客の関係において、客体のほうが究極的に客体化されるのである。ものが、そのものの実存の奥底から、ものをいうようになる。そのような場で、芸術の人は真に表現すべき物語るべき客体を探し当てるだろう。それはなにか善なるもの、美なるものあるいは真なるもの、根源的なものとなるだろう。表現において隠喩的、逆説的であってもそれらを示唆するものとなるだろう。真の芸術家とは、この自己の奥底への冒険を、正気であれ狂気であれ、果断に行う人のことをいうのではないか。そしてその冒険の成果すなわち作品を、自己の奥底から共通の世界へ無事に持ち帰ることのできる人が、まさにその人であるように思われるのである。
 柳原睦夫はあと十年と言う。先のことはわからないが歳月は勝手に来て勝手に去っていく。まこと承服しがたいことではあるが、こればかりはいたしかたない。老いというのは、肉体が一体として充実し大丈夫でいた状態が、しどけなくばらばらになっていくような感じなのではないか。しかし精神のことをいえば、この孤高の作家の精神は別格で、年経るにつれ、来し方を織り込みながら、さらなる高みでの自己同一性の完成と統一に向かっているように思われる。写真の作品は、各部をアサンブルしたような様子ながら、バランスに破綻なく、まさに理性と正気の充満した一個の大丈夫としてのインテグリティーを示している。そしてなにか形而上的な事柄を言わんとしているような風情である。先生の孤独の底は深かろう。しかしそれは真の芸術家なら甘受すべきものであろう。生きている者同士ならそれは同時代人である。歳は関係ない。筆者はまだまだと、失礼ながらこれからも先生を叱咤激励させていただきたく思い云爾(しかいう)。-葎-

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