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photo:来田猛

金憲鎬展Hono KIM

Light Clay and Thick Existence

8/29 Sat. 〜 9/20 Sun. 2015

 政治に対する興味には押さえ難いものがある。いやな気分にさせられるとはわかっていても、このごろはネットで政治家たちの問答が好き放題みられるので、ほかにやらねばならないことがあるのについつい見てしまう。つらつら見るに、そこでくり広げられているのは、宗教裁判のようなものである。あるいは法廷弁論のようなものである。憲法がご本尊のようなもので、その教条が絶対的なものとして取りあつかわれている。そこから出られないのである。政治の放擲である。筆者には憲法以上の不文の法があるぞと思われてしょうがない。不毛な法廷弁論からかえってそのことがあぶり出されているのではないか。見ていてお題目のように繰り返されるから覚えてしまったフレーズがある。今回の法改正(いわゆる安保法制)のためにあらためて言われているところの…、わが国かアメリカに対する武力攻撃が発生し、そのことでわが国の存立がおびやかされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底からくつがえされる明白な危険がある場合はどうする?というくだりである。どうするもこうするも、そんなことになったらしょうがないではないか。手をあげてしまうか、窮鼠猫をかむではないが遮二無二やり返すかのどちらかしかない。しかしどうだろうか、わが国はこれの判断にどうするどうするといっているうちに、当てになるかならぬかも知れない同盟国の信用も失い、あれよという間におびただしい人死にを出してしまうことになるような気がする。言われているところのような事態がもし惹起したらの話であるが。
 ところで生命、自由、幸福追求の権利と、抽象的に漫然と並べて言われているが、欲ばりすぎである。この三つのものの価値にはおのずから区別があり、おたがいに矛盾し合う側面もあるのではないか。生命と自由、どっちを取るかいった両価値の衝突だってあるだろう。生命尊重といっても、人間にはただ生きているだけではという問題があるであろう。自由の行きすぎはカオスと混乱と専制政治に通じる道でもあろう。それから幸福追求の権利といったって、そのような抽象的な権利自体が仮象であって、そもそもそれだけの資格が私たちに一体あるのかと自問しなければならないのではないか。しかしまあこれら三つのものが根こそぎひっくり返される場合はどうするかという話が進んでいる訳である。筆者はやはり自由というものの価値にもっとも重きを置きたいと思うものである。自由に潜む陥穽とか毒はさておき、自由というものの価値から導き出されるものがもっとも多いと思うからである。私たちは、自由によって人間になることができ、自由によって人間でいられることができるのではないか。筆者は他国の侵入支配によって自由が犯されたり、あるいは国内において独裁政治や一党一派によって自由が極端に制限されるような状況のなかで呼吸するのはどうしてもいやに思う。そんなことは誰でもそうであろうが、しかしこの、全ての自由の淵源となる公的な自由が犯されるということに対して、どうしてもいやといった本能的なというか、健康的なというか、そのような国民的エートスが私たちの共通基盤として共有されていないということが、上述したような立法における混乱の根本にあるように思われるのである。
 突如として失礼だが、金憲鎬という人は、その作風にもよく表れているが、まこと自由の人である。それは彼の精神における自由であって、彼は、彼一身の自由を作品と共に謳歌しているように思える。しかしそれはたやすく手に入れられた自由ではないように思われる。いわば精神の漂泊の末に、生まれ持っての知性が助けて自得されたもののように思われる。ここで言いたいのは、彼の自由は、宗教的確信のように、自由の真の意味を知った上での内心の自由、精神の自由ということである。
 彼の目から見れば、今この国で行われている政治の議論などバカバカしいものとして映っていることだろう。彼岸から眺めるような光景なのかもしれない。毎度言うことだが、彼の作品ほど土が持つ無限の、自由な可塑性を感じさせるものはない。土そのものが自由を謳歌する風情である。作品が彼の超克といったものを暗示している。作品は人なりという。長年の付き合いである。筆者は金憲鎬を、個の自由のプロトタイプのような人と見ている。そのような彼に対し、筆者は自由の価値を共に奉ずる同胞のような気持ちでもって、勝手ながら常々敬意を払っているのである。
 今展の副題は‐Light Clay and Thick Existence‐ということで、軽くうすい土と、太く厚い存在感というほどの意味だが、彼という人にもそのようなイメージが重なる。それで、これまでうすくて軽いものは彼の作品にあまり見られないこともあり、今回は軽みで行こう!と相成ったわけである。厚かましくも無理筋の注文に応じていただき送られてきた写真の作は、金属板を叩きのばしたような薄さで、非常に軽い。指でたたけばブリキのような音がする。まさに副題をそのままこの作のタイトルにしたくなる風情である。写真からでもふわっとした感じと、ただならぬな存在感が匂い立ってくるのである。なにか彼の新局面が出てきそうな気配で気持ちがざわついてくるのである。-葎-

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