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photo:大槻一人

安永正臣展Masaomi YASUNAGA

Art Needs Genuine Criticism

7/29 Sat. 〜 8/20 Sun. 2017

 過日、ある陶芸家のお宅で談笑していたとき、批評ということについて話し合うことがあった。その重鎮の陶芸家は、近年、世に行われている批評の全般が低調であり、やせ細ってきているという意味のことを、往時を懐かしむように語っておられた。思うに芸術の行為は、本来的に孤独で無援なものであるから、享受と批評を渇望するのではないか。制作する人、享受する人、そして批評する人。この三者相互のシンパシーと真剣な切り結びがあってこそ芸術は孤独を慰められるのである。
 しかしながら批評というものは、批評される側からすれば、一種のおせっかいのようなものといえるのかもしれない。それはなにか不仕付けに外から加えられるアクシデンタルものであり、うるさいといえばうるさいに違いない。しかしおせっかいも、他人のことに無関心ではいられないといった、他事をわが事のように思う気持ちがなかったらそもそも生じないだろう。いいかえれば批評というものは、その社会におけるある種の共同感の産物なのだといえる。これが独裁専制の社会では、人々の共同感の現れとしての批評など生じ得ないし、批評することはつねに恐怖が付きまとうことになる。なにを言ったところで仕方のない社会、なにごとにも自分たちは与(あず)かることのない社会なのである。そういう意味では、いわゆる何々評論家がいっぱいいる私たちの社会も一応はよしとすべきなのかもしれない。
 筆者は、いろいろなすぐれた批評が、自由に行なわれ広く人々からも歓迎されるような社会に棲みたく思う。件(くだん)の重鎮の思いもそうなのだろうと思う。正当なロゴスを以って批評を加え、あるいは肯定し、あるいは否定し、そして審判を行なう…。たとえば一つの作品について批評するとき、批評家は、面白味とか魅力だけでなく、その作品がどこまで真に迫っているかどうかを述べねばならないだろう。そのためには、彼は真実なるもの一般について、広く深く知っていなければならないだろう。またその作品にまつわる技術的なことがらについても、一般の人々に対しては、玄人の立場にあることが求められるだろう。それからまた大仰にいえば、その作品が世のため人のためになるものなのか、なにか得るところがあるのか、毒でも薬でもいいがなにか益するところがあるのかといった、広い意味でのよしあしの問題として、そういった善悪の視点からも対象が批評されねばならないと思う。それは倫理性の問題でもある。しかし世俗の道徳を一歩も出ないような批評をいうのではない…。以上まあなにが言いたいのかといえば、よい芸術を教えてくれ、知らしめてくれということである。そして私たちの品性といったものを少しは高めてくれと言いたいのである。詮ずれば、よきもの、美しきもの、高きもの、清きもの、正しきもの、あるいは低劣低俗悪しきものでも、それらを間違いなく指し示すことのできる人が本物の批評家だと思うのである。批評家の理想をいえばきりがない。今の私たちはそのような批評家を何人もっているだろうか。
 お話し変わって、あの長次郎の一連の茶碗は、長次郎一人が生み出したしたものではない。職方としての実作者長次郎と、批評者、審判者である利休との共同によって制作されたものといえる。完成への途上で、利休はああでもないこうでもないとダメを出したことだろう。口だけでなく実際に土をいじって祖型を見せたりしていたのかもしれない。長次郎もいろいろ試み、これでどうだといった呈示を重ねたことだろうと思われる。かく二人の親密な関係のなかで、実作と批評の応酬が行なわれていたのである。批評が特定の実作に直接コミットしていたいうことである。その成果があの茶碗なのである。ここでの利休は、思想家であり、茶の湯者であり、侘びの美の求道者であり、禅と老荘思想に由縁する深い教養を血肉としている人である。そのような人が長次郎の前に一人の批評者として現れ、共に一つの目的を達成しようとする。そして最終段階で利休は長次郎に対し、これでよしと審判したのである。畏怖すべき批評が、長次郎を高め、空前の抽象造形を生さしめたのである。
 写真の安永正臣の作品は、なにかうずまっていたものが時間を経てガラス化したような風情である。卵形の器が四つに連なっている。これは粘度をもたせた釉による造形である。それをシャモットや砂のなかでうずめ焼きしたものである。還元がかったきれいな水色が透光している。安永一人(いちにん)の独特の詩的表白と認めたい。
 創作は孤独で無援なものと言った。彼にもその孤独を癒すような享受と批評が与えられんことを願いたく思い云爾(しかいう)。-葎-

Masaomi YASYNAGA
1982 大阪生まれ
1988 三重県名張市に転居
2006 大阪産業大学大学院環境デザイン専攻修了
2007 伊賀に工房を設け作陶
2010 滋賀県立陶芸の森にて滞在制作
2011 薪窯を築窯
2013 ARCTICLAY 3rd SYMPOSIUM
     フィンランド、ポシオにて滞在制作
2014 国立台南芸術大学にて滞在制作

個展(近年)
うつわ京都やまほん(京都)
TRIギャラリー御茶ノ水(東京)
アートサロン山木(大阪)
ギャラリーUchiumi(東京)
ギャラリーやまほん(三重)
ギャラリー器館(京都)
その他国内外にて

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