• home
  • gallery
  • schedule
  • shop
  • access
  • contact
  • information
  • news
お問い合わせ プロフィール
  • オブジェ〝Shigaraki Sphere〟
  • オブジェ〝Shigaraki Sphere〟
  • オブジェ〝Shigaraki Sphere〟
  • 〝光器〟中次薄茶器
  • 〝光器〟中次薄茶器
photo:Takeru KORODA

新里明士(Akio)展Akio NIISATO

Between Works and Criticism

4/6 Sat. 〜 28 Sun. 2019

 ある作品に対する批評は、普通それは第三者によって外からやってくるものである。不意にやってくることだってあるだろう。そのとき批評される方は、なにか余計な、どうでもいいものという感じがするのかもしれない。これが公募展など、公的な審査とか評価がされる場合では事情がちがってくるのだろう。作品自身が批評されるのを望んでその場に出てきているわけである。いずれにせよ作品は批評されることを欲しているのだろうか。また見物側にとっても批評というのは必要なものなのだろうか。
 筆者ごときも、やきものという狭い世界のなかで、批評と呼べる代物(しろもの)でないことはしかと認識しているが、ときに評文をものすることがある。自分にその資格があるのかといった畏れを抱きながらである。書く以上、相手に対する責任のようなものも感じる。同情あふれる批評、シニカルな批評、ダブルミーニングのなかで婉曲だが実は辛辣な批評、全否定といった批評など、書く者にとっては、肯定と否定、褒(ほう)と貶(へん)との間を行き来しながら悩ましいものがある。ただ全否定はいまだかつてしたことがない。全否定の衝動をおこさせるほどのものに、これまで出合ったことがないからかもしれない。しかし逆説的だが、もし出合ったら、かえって全否定が全肯定の批評に転じてしまったりするのかもしれない。全否定の衝動に駆られるほどの迫力と破壊的な逆価値を、その作品が内包していることがあるかもしれないからである。そんなときの批評はもっとも真剣で真摯なものになるのではないか。真の批評は肯定よりむしろ否定にその意義があるように思われる。鋭い否定の批評は、ロゴスによって私たちに気付きと覚醒を促すことがあるのではないか。
 またなんだかむつかしくなってきたが、芸術における批評というものを考えてみると、まず作品ありきであることは確かである。そしてその作品を、一般の個々の見物が、面白いとか美しいとか素晴らしいと感じるとすれば、それはそれで一つの審判が出たということになる。大衆が批評し審判を下している図である。そしてそのように審判された作品がもてはやされ、脚光を浴びたりすることがある。しかし大多数の見物が面白いとか言っているものが、真実すぐれた作品なのかどうかは疑問である。現代ではマス媒体によって広告代理店的手法で仕掛けられるアートなるものが、一世を風靡したりする。しかし概してそれらは流行もの廃(すた)りものである。一過性なのである。昨今のそのような方法、尺度で選ばれる作品はいかなるものなのか。あらゆる分野でほとんどのものはくだらないのである。大多数の個々がいいと審判する(審判させられている)ものばかりが幅を利かせるならば、それは芸術と見物両者の、果てしない堕落につながるのではないか。私たちの芸術文化というものを考えるとき、それは恐るべきことのように思われるのである。
 ここに私たちは大衆というマスから独立した真の批評者の存在を認めなければならないのではないか。そして批評の仕事は以下のようなものであらねばならないのではないか。芸術が神まねびの行為であるなら、具象であろうと抽象であろうと、作品がどこまで上手に真に迫っているかということを見る。技術技法についても知悉しているべきである。ある作品が毒なり批判を内包しているなら、そこにも真実性を指摘できるかどうか。そして、それらが私たちの人間社会にとってどのようなためになるのか。なんらか裨益するところがあるのかどうか。そしてどのような善美なるものをもたらすのか。このようなプリンシプルを了見している人が真の批評者のように思われるのでる。もっともそのためには、批評者自身が生き生きとした感性を持ち、作者の真実性追求の姿勢を理解しうる知性も兼ね、善美なるものを遠くに見据える徳性をも兼ね備えていなければならないだろう。これらのことは裏返せば、本来は作家自身とその作品にもそのまま要求されることなのである。
 以上は作品と批評のあるべきようの理想である。その理想を思えば現状は見渡せば花も紅葉もなかりけりといった体(てい)でさびしい限りである。やきものに限っても、高風匂い立つような批評家が今だれかいるだろうか。しかし古往今来、そのような理想を心に定めて、それに少しでも近づこうとした作家と評者(理解者)の共同関係が、数々の偉大な作品を出来(しゅったい)させてきた側面は否定できない。批評無きところに花実は咲かず作品の向上もないのである。
 三度目の新里明士展であります。彼は昨年から信楽へ行ったり来たり。まもなくレジデンシーを終えるとの由。現在最後の窯焚きに入っていることと思います。写真の作は、Sphereと銘打たれ、球体、天体というほどの意味ですが、掌中におさまる裾つぼまりの彼らしい美しいラインを描くオブジェです。信楽手で茶碗やその他の造形作品も出してくださる予定であります。彼の代表的シリーズ〝光器〟の最新作も出展の予定です。
何卒のご清賞ご批評をよろしくお願い申上げます。-葎-

Gallery一覧へ戻る
Return to Gallery Page

本展の出品作品は、Shopページでご覧いただけます。
Pieces shown in this exhibit can be viewed, and, if available, purchased, on the Shop webpage. Please follow this link to the Shop and search using the artist's name, or navigate using the alphabetical list of artist names.

第十三回〝遊碗〟展
前の投稿2019年3月2日

第十三回”遊碗”展

加藤委展
次の投稿2019年5月4日

加藤委展

PAGETOP
2025 © utsuwakan inc, Japan. All Rights Reserved.