「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という親鸞上人の言葉は有名である。どういう意味かと考えさせられる。要するに往生というか、悟りというのか、そういうものは今生の善悪にはよらないということなのだろうか。弥陀の本願が善悪をえらばすというのなら「いわんや悪人をや」という言葉になるのだろう。だから、善悪をえらばずという弥陀の救いは、そもそもえらばないということなのだから、逆説でいえば逆も真なりで、善を積んだからといって往生の約束にならないし、悪行をかさねたからといって、悪人かわいやということで往生できるわけでもないということになる。そんなに都合のいい話をいっているのではないように思うのである。
上人は自省の極みの人だったと思う。そして絶望の人だったと思う。悪人というのは自分自身のことだと捉えていた。悪人とは他人のことではない。他人からいわれることでもない。自身のことでなくてはならない。実際おのれの内奥をのぞき込めばそうではないか。そのような自知を突き詰めた認識は、一つの恐ろしいショックであって、上人を打ちくだくようなものだったのではないか。自分には救いは絶望的であり、救いから絶望的に遠い自分がいる。しかしながら、そういった絶望の淵にいる悪人親鸞を救った信仰が、いわゆる「本願不思議」「他力不思議」なのだろう。しかしまた、上人のような徹底した自知を経て他力にいたる道は、だれにも踏めるものではない。稀有であるというのも、真宗の教えを思えば皮肉な事実である。上人は歎異抄のなかで歎(なげ)きに歎いている。宗祖の心弟子知らずというところか。
悪はどこからと問えば、上人なら汝ら人間の奥底に根源をもっていると応えるのではないか。たしかに悪は神々のところにはないだろう。やはり人間のところを探すほかない。悪にも大中小がある。普通人なら大した善いことも大した悪事もできないだろう。そんな個々の日常的善悪などひと呑みにし、全体を不幸と惨憺のどん底にもっていく極悪がある。
人間の悪というものは、絶対権力の地位を得て、はじめてあるがままの姿を現すようだ。小悪党ならお縄になり法律で処罰されるが、大悪党は法律を超越する。おのれの悪行が最高の正義とされるよう法律そのものを抑えてしまう。その超越的な存在は決して罰せられることがない。かえって賛美され、聖者のごとく崇められる。絶対専制政治における独裁者、ヒトラー、スターリン、毛沢東など、彼らが大悪党であるのは、おびただしい人間を殺したということだけにあるのではない。自分を正義そのものの地位においてやった所業にある。正義の悪用である。正義を悪用する超越的な不正の極みが独裁者の悪だったのである。昔からタチ悪の独裁者はしばしば現れるが、現代もまた独裁者の時代である。そして現代の独裁者の悪は、昔とちがって世界中に恐怖と不幸をまき散らすのである。それにしてもあんなに自国民他国民側近政敵を生殺与奪しては夢見が悪いのではないか。いや彼らは自身の悪は奈辺にありやと、心の奥底をのぞいてみても、底が抜けてしまっているのかもしれない。昔から独裁者の末路はお定まりなのだが、もうたくさんである。その地位にいつまで長居するつもりなのかと、強い怒りを覚え暗澹たる気持ちになるのである。This world is so wrong, and a pity, isn’t it?
上述は本展の山田晶の祖父喆(てつ)、父光(走泥社創業者の一人)が親鸞の徒であったことから、むかし読んだ歎異抄のことが思い出され、由無しことに終始してしまって、山田には何のかんばせありてかまみえんといった次第となった。次会ったときにじかにご寛恕を請おうと思っている。
ほぼ三年ぶりの山田晶展であります。聖性を帯びるような丹を思わせる猩々緋の呈色、そのグラデーションと陰翳に新味と彼の意気込みが窺い知れます。猩々緋は上絵ですが、今回は山田の家に受け継がれる釉を用いたうつわも出展されるようです。おそらく土ものでしょう。何卒のご清鑑を伏してお願い申上げます。-葎-
山田晶展Akira YAMADA
Looking for The Move & Sophistication
4/6 Sat. 〜 21 Sun. 2024