毀誉褒貶(きよほうへん)という四文字は、悪口をいうこととほめること、というほどの意味である。毀誉褒貶相半(あいなか)ばするとか、定まらずという。思うに人はみな相半ばし、定まらずなのではないか。どちらか100%の人など、この世にはいないはずである。
近ごろの世相は、ほめたり落したりを、気まぐれに、あるいはうっぷん晴らしにやり過ぎなのではないか。ほめておいていつか落してやろうと、手ぐすね引いて見ている人間のなんと多いことか。今ともなれば名を名乗らずに底意地むき出しの悪口雑言をたれ流すことができるようになった。人をして致命傷を負わすようなことを平気でやる者もいる。昔はこの類の人間を卑怯者といった。物かげに隠れてやみ討ちをするようなものである。覚悟とか責任とか、廉恥(れんち)というものが消え失せてしまっているのである。
一方、ほめるにしても覚悟と責任が要る。人はほめられてよくなる。よくなれば、ほめたほうもほめ甲斐があったというものである。なかんずく芸術の人はほめ甲斐がある。なぜなら創作の世界は不安がつきもので、彼ら彼女らは不安な存在だからである。ほめるとびっくりするほど嬉しがってくれることがある。ほめればその表情は一変する。それが刻々と一顰一笑(いっぴんいっしょう)に見て取れるのである。えらそうなもの言いのようだが、まことにそうなのである。そんなに本気にしてもらっても困る、やばいと思ってこちらがあわてるほどである。だから自分に言い聞かさねばならない。ほめるときは覚悟をもってほめるべしと。そして作品がダメとなったら、その際もきっぱりと言うべしと。筆者などは、お作りくだされと頼み込む側なのだから、とくにそのような覚悟と責任をもって対さねばならないと思ったりするのである。しかしそうはいっても、なかなか言うは難しで易しというわけにはいかない。勇気のようなものを振りしぼらねばならないときもある。しかしまた、畢竟(ひっきょう)するに、芸術の人は作ったものがすべてであり、それが美しければ、真にせまっていれば、他事もなにもない、すべてよしなのである。ここのところは動かない。はっきりしているのだから、こちら側もはっきり、きっぱりとするのがおたがいのためにもよいと思うのである。そういった享受側あるいは批評側との交わりが、芸術の人の孤独を和らげ、勇気づけ、鼓舞することにもつながるのではないかと思うのである。
高柳むつみの展も八回目となる。筆者は彼女をほめちぎっている。確信をもって本気でほめている。彼女には負荷だったろうか、励ましになっただろうか。もう充分なのだが、さらに加えれば、彼女はいわば間一髪的な感覚の持ち主で、鴻毛(こうもう)のごとき、触れもせでといったタッチでもって、造形と文様に処することができ、力を加えずに山をも動かすといった体(てい)で複雑かつ冒険的なことをやってのける人と言いたい。かくて作品は天から舞い降りてきたような風情である、といったらこれまたほめ過ぎだろうか。写真の作品は、ごく淡く青磁の呈色を帯び、空ろなるところでは、なにか有機的な残滓のようなものが、風を受けひらひらとしているようだ。上から見れば七角形で、七で割り切れぬ正七角形が透けて思われてくる。あれは作図できるのだろうか。筆者は彼女専用のこの世ならぬ特殊な定規をもっているのではないかと思わせられてしまうのである。-葎-
高柳むつみ展Mutsumi TAKAYANAGI
Between Praise and Censure
6/1 Sat. 〜 16 Sun. 2024