親鸞上人は歎異抄のなかで「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」といっている。上人はすでに弥陀による救いを確信していたと思われる。だからこそ上人の言葉は有縁の衆生の耳朶を打ったのだろう。ひるがえって現代は無縁の衆生ばかりの世に見える。私たちは来世のことを思わなくなった。すでに未来への関心は来世にはない。しかしながら唯一絶対で、不可避の未来とは死であろう。その他の死までのすべての未来は、人間業の外にある。私たちはことさらに死を矮小化し、忘れすぎているのではないか。そして上人が説いた他力本願とは全き別種の”他力”を信じているようだ。それは未来の政治とか福祉社会とか科学技術のことをいうのだろうか。だがそれらがなにを約束してくれるのか。バラ色の未来なのだろうか。
今日の仏教者の間ではどのような応酬があるのだろう。親鸞の弟子唯円は「念仏申し候へども、踊躍歓喜の心おろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまいりたき心の候はぬは如何に」と不審を上人にぶつけている。上人は対して、お前もそうか、自分にもその不審があったのだと身も蓋もなく告白する。そして二人で悩みを分かち合っている。上人は続けて、それは煩悩熾盛のゆえに生ずる不審であるから、それだからいよいよ往生は決定であると思え、なぜなら弥陀の大願はまっさきにそのような者どもを救うためのものなのであるからと応じている。なんだかすかされたような気もするが、上人と唯円はすでに同じ信心の上に立っているのだからこれで通じたのである。彼らはこのような問答を重ねながら、発心を新たにしていったのだろう。その度に救いと歓喜があったにちがいない。この師弟関係がうらやましい。
また「親鸞は、善き人の教えを被りて信ずるほかに別の仔細なきなり」という。上人にとっての善き人とは、浄土教の祖師を代々さかのぼって釈尊に行き着くのだが、そのような”善き人”はこの世のうちには不在なのだろうか。その不在はあまりに長いと思われる。また仏教の現在のありように、いろいろと異議がとなえられている事実を、きびしく自覚している仏教者はどれほどいるのか、いないのか。どれほど自らに不審を持っているのか、いないのか。
現代社会の悩みと不安はぬぐい去りがたく、心を壊す衆生があとを絶たないように見える。私たちとて羊のように言われるがままに御され、目の前に見えるものだけに執著し翻弄されている。しかし私たちも私たちなりに現代という時代に”不審”を抱いているのではないか。そして今に生きる者同士として、仏教者も衆生もそこは同じく共有しているのではないか。とすればここは一番仏教者に奮起していただきたい。衆生の耳朶に触れもしない言葉ではなく、心に響く自身の言葉を吐いていただきたい。衆生の心に安らいをもたらすのが貴方たちの一大事業でしょう。もっと大仰にいえば、今日の唯物的な歴史観や、科学信仰に対抗し得るような、現代仏教としての新しい局面を開かねばならないのではないか。貴方たちも”善き人”との邂逅をかつえるように渇望すべきなのではないか。親鸞と唯円のようにとは言えないが、正統な仏説による救いを、ささやかなりとも今に生きる私たちにも追体験できるのでなければ、出家者の立つ瀬と甲斐はどこにあるのかと、長らく不審に思っていたので問いたいのである。
写真の中村譲司の茶注は秀逸で、これを用いて甘露な煎茶を喫したくなってくる。一煎一煎また一煎と、酒ではないが陶然たる気分を味わう。眼前には架空の出家者がいて上述のような不審をぶつけてみたい気がする。酒だと酒に呑まれるきらいがあるので煎茶がよい。かえって冴えてくる。出家者はどのような人でどのようなことを説いてくれるだろうか。ひょっとしてお互いに不審が晴れるのかもしれない。もしそんな得がたい情景が現実となるなら、決して無益なことではないように思われる。彼の茶注も一役買ってくれるわけである。この茶注、蓋は沈み込むように落ち、内をのぞけば碧水のごとき青緑である。
今回で三度目の中村譲司展でございます。何卒のご清賞を伏してお願い申上げます。-葎-
photo:Takeru KORODA
中村譲司展George NAKAMURA
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2/8 Sat. 〜 23 Sun. 2025