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  • 佐藤和彦展
    (左:白セッ器壺H56cm 右:白セッ器覘壺H43.8cm)
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photo:永田陽)

佐藤和彦展

6/3 Sat. 〜 25 Sun. 2006

「僕はずっと赤土を使用してきたのですが、今回は本当に久しぶり(15年ぶりぐらい)に白土を使います。白土といってもただ白いだ けではなく、非常に味わいのある土です。赤土で作った黒っぽい作品より白い感じのものの方が今回は造形上向いていると思ったからです。展覧会の半年前ぐらいに準備に入ります。色々な白土を取り寄せて、あれこれ試験してみました。とても気に入った質感の土ができたと思います。
僕はずっと手びねり(紐造り)の仕事を続けています。皆からタタラ造り?とよく聞かれますが、すべて紐造りです。タタラ造りですと焼けた時ちょっと面が内側へ反ってしまうのがいやで、とても大変ですが紐で造っています。

造るということが段々難しくなってきています。それでも粘土の紐がずっと積まれて、それが面になる瞬間に喜びと満足を感じます。これが僕の本質のような気がします。

壺は寝かせて作り、焼き上ってから立て、皿は立てて作り、でき上ってから寝かせます。こんなことをすることで形の面白さ、自由さが表現できるのかと思います。

今回の、中の抜けて向う側が覗ける、覘壺(テンコ)と名付けたものなどは、光のあたり方によって、とても面白く見えると思います。

今回茶碗もたくさん出します。壺の制作が計画性を持ち精緻な仕事であるのに対して、茶碗は、インプロビゼーションいわゆる即興演奏みたいなもので、随分と楽しくたくさん作りました。その中から選りすぐりを出品します。

いつも考えています。純粋に造るとはどういうことなのか。だけど陶器というのは結局、器(壺、鉢、皿、茶碗…)なのか? でも土で造るのは? まあ何でもいいのかな。だからってオブジェ様々というのも何か僕にとって無理があるみたいだし、結局器っぽいもの作って何か自分なりを表現できればと、そればかり考えて…
まあこれがなかなか難しい!
良い作品というのは何か自分の本道から出てくるのではなく、作っていくうちにそれなりののりで自然と出てくるみたいで、やはり作り続けていないと何も始まらないという感じはします。

古代の風の音、朽ちはてた色、乾いた質感… そういうものが大好きです。でもそれをどう表現していくのか、いまだに解りません。たぶんずっと求め続けていくのでしょう。

久しぶりの京都です。器館さんに又お世話になります。

皆様、是非ご覧頂きたくご案内申し上げます」
        2006.5.1   佐藤和彦

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 人は五才にしてすでにその人であると云う。ちょうどその年頃に脳ミソの配線が完了するのだろう。あとでいかなる影響を受けようが、根本においてその配線が変更されることはない。言語中枢がそうであるらしい。三つ子の魂百までとも云う。

 芸術の人はもっと宿命的である。アプリオリに脳ミソの配線以前、遺伝子のレヴェルで決まってしまうのか。天賦の才と云われる所以である。しかしその天賦の才とはいかなるものなのだろう。

 いろいろと云えるだろうが、上位概念から云うならそれは神の営為に感応し、神の高みで神のまねごとを断片的にすなる能力。超自然的なる存在と交感できる能力。時間空間を鳥瞰でき、かつ精神を自在に往還させることのできる能力。それからである。平面なり立体なり、言葉なりにその精神を現物化できるか。すなわち抽象という行為である。時間空間自然人間から劇的なるものを煮詰めた状態で抽(ヒ)きだし象(カタチ)づける。その際、真の抽象は美醜の向う側に現れる。美は追従を嫌い、おもねればおもねるほど霧散する。

 これらの下位のところに、筆遣いが、ロクロが、すなわち技術が卓絶しているとか、素材に通じて用いるに自由であるとか、憎いほど見物の泣かしどころをわきまえているとか、そのような属性があるだのろう… ごまんといる芸術家すべてにこれらの一つでも備わるものならめでたいが、この世はしばしば神も仏もないところである。備わっていようがいまいが、天才には天才の、勘違いの人にはその人なりの悲喜劇が古来くり返されてきたようである。

 今展の佐藤和彦のキャリアは学校を出て以来三十年を超えてる。

「造るということが段々難しくなってきています」  「純粋に造るということはどういうことなのか」
「そればかり考えて…」
「どう表現していくのか、いまだに解りません」
上の彼の消息文のなかにある表現である。芸術の人はこのように書生気質なのである。青臭いことを云うのである。しかしこれらの言葉には彼の祈りのようなものが込められている。もの造る人ならまじめに決まっている。彼はおのれの可能性に望みをかける。天からのギフトの発現を待つのか。それは一縷の望みである。消息文からそのような響きが伝わってきて、青臭かろうが彼の言葉として了解できるのである。彼の赫赫たる経歴と作品がものをいって、白けることがないのである。

葎

KAZUHIKO SATO
1947 神奈川藤沢市生まれ
1970 東京芸術大学美術学部工芸科卒
1972 同大学院陶芸専攻了
     大学で藤本能道、田村耕一に指導を受く
     修了作品にサロンドゥプランタン賞
     自宅に築窯

個展招待展、国内外95回
湯河原do陶芸館館長
著書に「手びねり陶芸塾」(誠文堂新光社刊)

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