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photo:永田陽)

金憲鎬展Hono KIM

4/7 Sat. 〜 29 Sun. 2007

いつだったか【存在の耐えられない軽さ】という本があった。たしか映画化もされた。読んではいないが、これなどまさしくネーミングの勝利である。作者は、タイトルを思いついた時点で半分成功したと思ったことだろう。

 人も生きものとしてそこに息づいていれば、それで重いも軽いもない、存在しているということになるのだろうが、それだけでは心許ないのが人間のならいのようである。迷える娑婆の凡夫凡婦は、いろんな重りをとっかえひっかえ自分にぶら下げてみては、これでもなしあれでもなしと存在の耐えられない軽さの日々に深くあるいは浅く悩んだりしている。

 人の根本的な幸福に、Identificationすなわち自己同一の幸福というものがある。人は空でも海でもなくこの大地の上に生を享けるのだから、それは同時に否応なくある祖国に生まれるということでもある。そしてさらにある民族、文化、言語に生まれるということでもある。どこに生をさずかるかは、タケノコの出どこのようなもので運否天賦(ウンプテンプ)次第である。しかしもしそこが人間社会として、多少は不承であろうともおのれの一生を世過ぎするに足るところであるなら、それは人間の宿命の第一歩としてはすなおに嘉(ヨミ)すべきことであろう。アイデンティファイのための必要条件は与えられたということである。日本人はノーテンキだからこの僥倖にほぼ不感症である。一方で世界にはその条件さえ与件でない人たちが多くいるのである。 
 存在のこの耐えられない軽さをいかんせんと、たとえば出自がエイリアンである金憲鎬もかつては思い悩んだであろう。なかったと言えばうそになる。この初手からの自己存在の持って行きどころに悩まねばならないとはなんと因果なことであろうか。アンフェアである。いっそルサンチマンの権化となってやろうかと思ったかもしれない。と勝手に忖度(ソンタク)する… いや私たちは最低でもこの程度は想像せねばならない。

 しかし彼は今、自力で自己を解放したかのような、自然法爾(ジネンホウニ)な作品の世界に遊ぶがごとくである。その間の精神の彷徨は、ある時はすさまじい孤独と渇仰をともなうものであったに違いない。彼にはある一種、超克の風情がただよう。それはすごい存在の耐えられない軽さを受け入れ、諦観したのちに得たものであろう。彼の作品ほど土が持つ無限の、自由な可塑性を感じさせるものはない。その奔放なフォルムに与えられる自在な色彩と文様。土が自由を謳歌する風情。作品自体が超克を暗示している。それは葛藤の果てに、存在のためのファンダメンタルな重りさえ不要となった、自由人のみが呈示できるところのもののように思われる。そんな次元にいそうな彼に筆者は勝手ながら敬意を払っているのである。

葎

      Kim Hono: born in Seto,1958

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