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photo:小林禎弘

村田森展

Shin Murata

2/15 Sat. 〜 3/9 Sun. 2014

焼きもの師の矜持
 何年か前、筆者は柳宗悦の民芸思想について、村田森との係り結びのようなことで、ちょっと思うところを云わせてもらったことがある。だからこの作文の内容はかつてのものと重複する部分がありますが、ご寛恕くださいましたら幸甚です…。さて、柳の昭和六年の文章に「喜左衛門井戸を見る」というのがあって、そのなかに次のようなくだりがあります。喜左衛門井戸とは、現在国宝に指定されている高麗茶碗です。

 曰く『…高台の削りは井戸においてとくに美しい。だが美しいからといって無理にその真似をする。もとの自然さが残ろうはずがない。あの強いて加えたいびつや、でこぼこや、かかる畸形は日本独特の醜悪な形であって、世界にも類例がない。そうして美を最も深く味わっている茶人たちがこの弊をかつて醸し、いまも醸しつつあるのである。「楽」と銘ある茶碗の如き、ほとんど醜くなかった場合はない。「井戸」と「楽」とは、出発において、過去において、結果において、性質がちがうのである。おなじ茶碗というが、全然類型を異にする。「喜左衛門井戸」はまさに「楽」への反律である。挑戦である…』
 無垢で自然な朝鮮の茶碗。一方、作為を加えた楽や和物に対しては醜悪とさえ云う。名指して長次郎も光悦も、自然さを犯そうとしたその愚かさによって、畢竟、高麗茶碗に如かずと云っている。愚かとは大胆な、いわば全否定である。ひいては今の茶道も切って捨てている。創業時の茶人に比べて、その後の茶人数寄者へのぼろくそぶりは徹底している。たいそうな武者振りではあるが、しかしどうも首肯しがたいものを感じてしまう。そりゃそうともいえるだろうが、という感じである。文章にはうっとりしてしまうが。

 柳は浄土教、その流れの真宗、時宗などに深く傾倒した人である。なかんずく時宗の一遍上人の教えに最もシンパシーが強かったのではないか。時宗は他力浄土思想を追いつめて追いつめて、純粋結晶させたような宗派で、たぶんに原理主義的な趣きがある。柳はほとんどそれに帰依している。だから柳の美に対する信念や民芸思想は、ひと言でいえば、結構先鋭的な他力思想に貫かれているのである。しかしながら、その他力道なるものは、易行道とかいわれるが、はたして自力道より歩み易い道なのだろうか。完全他力の境地に至ることなど、昔も今も凡夫凡婦にはできない相談というべきである。他力も自力も究極のところは一つだろうが、その頂に立てる人は限られているのではないか。

 柳はそのような境地を、もの作る人に求めるのである。それは例えば素直、純朴、無心、無作為、そして健全といったもので、これらを欠くものはダメだと云うのである。自然法爾、自己放下まで行ってもの作るべしと云う。さすれば作品はおのずと自然に生まれ出ずるものであると。啓蒙される人は多かったろう。そうかと励まされる人もいただろう。しかしながら、無名の陶工の意識と産物にそこまでのステージを求めても酷である。彼らはたとえば阿弥陀さんの本願を有り難しとして、ナンマンダブと念仏するくらいで、衣食に追われながら、昨日と同じく今日も今日とて日々の仕事に励むのである。別になにもご大層なことはないのである。喜左衛門井戸にしたって、あれを挽き、削り、釉掛けし、焼いた人間が、柳の云う民芸的境地にいたかどうかは知りようがないし、ひょっとしたら行住坐臥、煩悩に振り回されている人間が作ったものかも知れない。柳は自分が阿弥陀さんになったような気分で、この近代において個我の取り扱いに悩む人たちに対し、我に帰依せよと云っているようである。高麗茶碗の美に拝跪せよと云っているようである。

 柳の民芸思想の背後には、ほかにもいろいろと匂ってくるものがある。たとえば植民地時代の朝鮮の人々への哀惜の情というか同情的な眼差し。あるいは社会を階級的史観でとらえるといった傾向もあるように思われる。柳は有産階級のひとだろう。筆者はどうも柳のそういった視点にきれいごとすぎる上から目線的なものを感じてしまう。ひがめだろうか。利休さんは、もののみに着眼し、ものだけ見て自身の美意識と思想をそれに映し込もうとした。柳はそれを人にまで敷衍しようとした。お釈迦さんは、つとに機根に応じ人を見て法を説けとおっしゃっておられる。柳の布教は、そこがちょっと違うように思われるのである。

 今展の村田森の作品をもし柳が見れば、きっと反応するに違いない。そして指導し、教化しようとするのかもしれない。村田も朝鮮のものをたまらぬものなりとする人である。憧れといってもよい。李朝の尤品を臆面もなく引き写しに写してどうですかと見せに来たりしていた。しかし彼とその尤品との間にご大層な夾雑物などは存在しない。彼はおのれをむなしゅうして写すのである。裸眼で、じかに李朝のなにものかを見るのである。そこにあるのは素直な驚きと感動のみである。そして写して堕さず、迎合の跡はみじんもない。そこを通っての個性の飛翔がある。こういう人も今にいるのである。往時もいたのである。柳の民芸運動の残滓はいまも見ることができる。帰依している人もいる。村田はそういう信仰を持たずとも作れている。要するに人品と才能である。彼が柳の高説を聞いたら、なに言っているんだこの人はという顔をするのではないかと思われて微笑を禁じ得ないのである。

葎

SHIN MURATA
1970 京都市生まれ
     京都精華大学を卒業後、京都の陶芸家荒木義隆氏に師事
1998 独立築窯
2003 京都市北区雲ヶ畑に移転、築窯
     現在に至る

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