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  • 原憲司 〝黄瀬戸筒旅茶碗〟
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photo:来田猛

原憲司展Kenji HARA

4/12 Sat. 〜 29 Tue. 2014

 筆者はこのあいだ原憲司に、黄瀬戸を見たことがあるかと問われ、答えに窮してしまった。現存10点たらずの黄瀬戸の黄瀬戸たるものを、そのエセンスを見たことがあるかという意味で聞かれたのである。見てはいる。あちこちの桃山陶の展で見た記憶はある。答えに窮したのは、たしかに見るには見たが、見れども見えずだったからである。むかしはものを思わざりけりといったところであろう。ありていに言えば、黄瀬戸にあまり興味がなかったのである。それに筆者の目は、のろまで遅いと自分でも思う。ファストとスロウでいえばスロウアイズといったところか。一瞥ぱっと感応するファストアイズのほうが上等に思われる。しかしながら、早目ならぬ遅目は、飛び上がって走り出すようなことがないので、その分こけること少なく助かったりもするのである。
 原のことは、敬して遠ざけていたきらいがあった。ある種の先入見をもって、彼は伝統工芸系の人だろうと勝手に誤解していた。知ろうとしていなかったのである。彼の黄瀬戸は桃山の再現といったもののように思われ、それなら彷古というものであろうと見ていた。桃山の再現は、すでに明治生まれの先達によって達成された観がある。彼らの仕事はある種の文芸復興だったといえる。美術史に残る足跡だろう。しかしながら近代の巨匠であろうと、桃山のイデア的な世界を凌駕超克することはできない。どれだけ肉薄しようとも、最後に残る紙一重がある。いわんや原においてもやである。今日の科学技術でもって時間と空間をいくら縮めようと、最後の間一髪は絶対的に残るのであって、ゼロにはできないのと同じようなことである。しかし芸術のことをいえば、最後のどうしてもつづめられない紙一重の地点に到達できたときにこそ、なにかブレイクスルー的な芸術の表現の余地があるのではないか。そこに古人に匹敵拮抗するような新たな時代の表現が生まれるのかもしれない。それはあがきもがくような困難な行為でもあるのだろう。時代時代のルネサンス的な芸術は、そのようにして達成されてきたように思われる。
 話がまたご大層にならぬうちに…。そんな原に筆者は黄瀬戸の美に目を見開かされてしまう。過去のグループ展で彼にぐい呑を出してもらったことがある。それを筆者の物置のような事務所の出入口近くに展示した。毎日そこを通るわけである。最初のうちはちらと見やるだけで素通りしていたが、そのうちにその前で一旦停止させられる仕儀となる。小さなぐい呑が徐々に光芒を発し、わが目を射るようになったからである。あらためて手に取ってこれは美しいものだと思った。黄瀬戸の精華、いわゆる菖蒲手(あやめで)のぐい呑だった。その属性のすべてを高度に具備している。釉、タンパン、鉄の三要素の、焼成に耐えたのちの絶妙な色彩的同時性。テクスチュアはこれが油揚肌かといまさらながらに思い知らされる。銅の緑は森深くの池沼のそれである。焦げた鉄彩は、黄と緑に対しどういう色なのだろう。補色というのか、とにかくこの色しかないといった風情で統一的な彩りを添えている。そして黄の色合いは、黄金に白金をたらし込んだような、白っぽい透明感のある、黄ともいえない黄を呈して清浄である。身は釉のうす衣をまとい、胎はうすく手取りは鴻毛のごとし。うかつでうわの空の筆者はやっと気づかされた思いだった。桃山のものではなく、原の作によって啓蒙されたようなものである。未知の美を知り、鑑賞の歓びを得るということは、その人に新たに一つ教養といったものが付加されるということであろう。筆者の上等とは言えぬヒューマニティーもこれで少しは豊かになったであろうか…。
 その原憲司の、これまでの来し方はいかなものだったか…。花の命は短くて、黄瀬戸の美も一瞬の光芒を放ってすぐに消えた。はかない美への純粋な憧れが彼を衝き動かしたのだろう。彼は美濃に居を定め、渉猟し、奔命した。探究し、研究し、試行をかさねた。彼はとことんの人である。そして想像を働かせた。その想像力は、彼をして数世紀前の美濃大萱(おおがや)の地に立たしめるようなものだったのではないか。そしてついに、古人がその地で、何か美しきものを作らんと昂揚している、その最中の現場に立ち会わせてもらえるまでになったのではないか。彼の魂魄は四百余年前に飛んで、古人と言葉を交わし、経験し、習い、またうつつへ帰ってくるのである。原は、かく遊弋することで、桃山陶の歴史を曇りなく映す鏡を持つに至ったのではないか。彼の鏡には古人の生活と、その生き死にまでが映っているのかもしれない。それほどの鏡なら、彼自身の相貌もくっきりと映っているはずである。それは歴史のディテールによって自己を知るための鏡でもある。その自知の鏡が彼の意志と選択と行為に一貫性を与える。彼の行為とは、美のイデアに近づいて行くことである。そのような人の作るものは、彷古のみに止まることはないのである。原憲司の黄瀬戸へのオマージュとして云爾(しかいう)。-葎-

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