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photo:来田猛

山田晶展Akira YAMADA

His own Colour and Texture

8/2 Sat. 〜 17 Sun. 2014

 〝盲亀(もうき)の浮木(ふぼく)〟という言葉がある。仏教における、救いの得難さとか、有難さを言い表わしているのだと思う。大乗のほうの経典にあるので、小乗的な自己の正覚、解脱を意味する言葉ではないと思われる。おのれの覚りというよりは、仏(ぶつ)の救いを意味しているのであろう。どんくさいのろまの、メクラの亀が無明を表象し、大海にただよう浮木が仏の智慧というわけである。仏典の言葉は深遠なので、いろいろな文句や言い回しが日常の慣用に用いられて、私たちの生活に根づいている。南無阿弥陀仏とか、南無妙法蓮華経などは、経典の固有名詞にナムだが、過去現在にわたって、私たち日本人の口から最も多く発せられてきた言葉かもしれない。あいきょう、あいさつ、アバタ、アミダくじ、ありがとうなども仏教語である。とものの本に書いてある。愛嬌は仏の相好の一つ〝愛敬相〟から来ている。挨拶はもとは禅宗の言葉で、挨(あい)は押す、拶(さつ)は迫ることを表している。禅問答における切磋琢磨の様子を連想させる。人間同士のぶつかり合いを前向きにとらえるという含意があるのだろう。有難うは言うまでもない。人間の体と姿でこの世にいること、その人間として仏の教えに触れることの億万分の一の確率が有難いのである。有難うという言葉を抽象していけば盲亀浮木ということになるのではないか。盲亀の浮木…詩のなかの一片のようなフレーズである。
 お話変わって、歎異抄のなかに、〝親鸞におきてはただ念仏して、弥陀に助けられ参らすべしと、善き人の仰せを被(こうぶ)りて信ずる外に、別の仔細なきなり〟というくだりがある。善き人とは、弥陀→釈尊→善導→法然のことで、弥陀は浄土思想のなかで考え出された象徴概念だが、あとの三人は歴史上の実在人物である。仏教は実在の釈尊がオリジンだから、釈尊以前に仏教があるわけもないのだから、釈尊の前に弥陀を置くことには矛盾を感じる。しかしかといって、今の浄土宗や真宗が破綻してしまうというようなことはないのだが、まあ弥陀をゴッドのような存在と置き替えてみれば、さもありなん、これあれかしという気がしてくる。それはさておき、親鸞上人はさらに云う…。念仏は、浄土への道か、地獄への道か、自分は、総じてもって存知せざるなり。たとえ師匠の法然聖人にあざむかれていて、念仏して地獄に落ちようとも、さらに後悔なしである。凡愚の身におきては、いずれの修行も及びがたき身なれば、結局は地獄が一定、自分の住処のように思われる。しかしながら、法然聖人から弥陀へと連なる系譜において、その仰せ、御釈、仏説、本願が、実(まこと)であり虚言でないならば、他の者はいざ知らず、親鸞一人(いちにん)におきてそれを信じ奉らんと。不審を抱いて教えを請いにやって来た人たちに対してこれらの言葉を放っている。好きにせよ、信心はおのおの方次第であると言っているのである。自らを洲(す)と恃み、迷いあるときは法を頼みとせよ、とは、涅槃間近の仏陀が説いた遺言的な教えである。親鸞聖人は本願他力を主旨としながら、ここでは根本のところで仏陀と直接している。ここでの親鸞は自力である。歎異抄には親鸞のこのような肉声が記されてあるのである。巻末に〝名づけて歎異抄と言うべし、外見あるべからず〟と記している。どういう意味か。人に見せるなと言っている。仏説に違(たが)えることだろう。しかしむべなるかなとも思われるのである。
 以上の条々は、今展の山田晶の父君である山田光の文章や記事を見てつらつらと思い描いたことで、盲亀浮木も、善き人の教えを被りて云々も、それらのなかにあった言葉である。光にとっては、生きる上で、制作する上で、寄る辺となるような言葉だったのではないか。このあたりは晶にとってはどうなのだろう。親だからかえってそのあたりの、光のヒューマニティーとしての上等な部分は見えにくかったのかもしれない。光の酒は、よい酒でなかったと聞く。かなりの武勇伝を聞いている。いろいろと悩ましかったのだろう。しかし人は生きているときよりも、死んでからのほうが、その正味というか正体を現すものである。輪郭がはっきりとしてきて、クッキリとわかってくることがあるのではないか。もの作るという行為は祈りにも似たところがある。それは信仰であってもいいだろう。あるいは何に最上位の価値をおくかという哲学的な確信でもよい。芸術の人にはそのような、制作行為に当たってすべてに援用される、自前の堅固な価値観といったものが、バックグラウンドとして必要なように思われる。ご大層なことを山田晶に要求して言うのではないが、日暮れて道遠しという。創作の時間は全く短い。その間に歓びと苦しみがある。残酷な一見物としては、さらにあがきもがき、お悩みいただき、一段も二段も上のものを見せていただきたく思い云爾(しかいう)。-葎-

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