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photo:来田猛

池田省吾展Shogo IKEDA

A Son of Oribe

8/23 Sat. 〜 9/14 Sun. 2014

 古田織部正重然(しげなり)は天文十三年、美濃に生まれた。西紀なら1544年である。この1544年という生まれ年は、応仁の乱が始まった1467年と、大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ1615年とを、足して二で割った、真ん中の年にほぼ重なる。切腹したのが、夏の陣の年の1615年であるから、織部はいわば戦国乱世というカオスの時間のど真ん中に生まれて、その終息の年、すなわち安土桃山終焉の年に死んだということになる。七十二歳。利休の自刃(1591年)が七十歳である。同じような歳である。山上宗二(やまのうえそうじ)が、「秀吉公の御耳にあたる事」を吐いて、耳と鼻をそがれて殺されたのが四十七歳で、二人に比べると若い。ちなみに宗二は、奇しくも織部と同年の生まれ、同い年である。別に取りたてて意味はないが、なにやら因縁めく。この三人は三人とも茶に殉じた。利休が死に、宗二が死に、織部がそのシンガリを務めたかたちになる。まるで示し合わせたようである。死んでみせたというわけではないが、この三人の殉教者がなかったら、茶は残らなかったのではないかと思われる。

 織部は、徳川家康・秀忠の謀殺計画の嫌疑をかけられて切腹したという。その嫌疑の具体的内容がどのようなものか知らなかったが、概略以下のようなことだったらしい。織部は主君秀吉亡きあと(1598年)、家康に属し、関ケ原の戦(1600年)では家康のために奮闘している。その勲功により七千石を給せられている。このとき織部は五十六歳。このころは人生五十年。すでに二年前に隠居していた。さもありなん。そののち、十有余年、隠居の身ながら、1614年の大坂冬の陣に出陣している。このときの嫌疑だったらしい。織部の末子、九八郎重行は、豊臣秀頼の小姓として側近くに仕えていた。おそらく秀吉が生きていたときから近習(きんじゅう)していたのだろう。死んでからの出仕はあり得ないと思われる。大坂方の、この九八郎の存在がことをややこしくしている。この息子と内通し、織部の家老木村宗喜に、家康が陣取る二条城に放火させ、五百騎をもって挟撃を策したというのである。しかしながら、二条城の家康を殺すのに、大坂城にいる息子と内通してどうしようというのだろう。豊臣秀頼を殺すための内通者九八郎ならわかるが…。またそれ以前に、負けると見えていた大坂方に、七十を越えた織部が寝返ることは考えられない。この嫌疑、いったいどのような物証があったのか知らないが、やはり作り上げられたものだったのだろう。利休は、秀吉の老耄(ろうもう)からくる愛憎相半ばの疑心と妄想によって殺されたが(いやあれは自由死だったが)、家康は冷徹なラショナリストである。家康は感情よりも、時代を読んで、織部を亡き者にしようとしたのだ。ついでに織部の息子たちも根絶やしにしたから、この点家康のほうが徹底している。かくて織部の家系は断絶したのである。家康はなにを恐れたのだろう。

 利休亡きあとの慶長年間(1596~1614)は、織部の時代といえる。下剋上という時代の帰趨がようやく見え始めたころである。文化諸般が、織部好みの色彩に染め上げられた。そのなかで「織部焼」は、それまでの美濃桃山陶のいろんなエセンスを併せ持った、桃山という時代の掉尾(とうび)を飾った華のようなものだった。それは、「ひずみたるもの、へうげたるもの」であり、バサラであり、異形で強力な、新しい造形を示すものだった。織部焼は、なにも織部が手ずから作ったものではない。積極的に作らせたわけでもない(というのが通説だが、自らの意匠を与えることもあったのではないか)。ともあれ、ある時代のやきものが、織部という個人名で総称されていたということである。すなわち織部好みは一世を風靡し、政治宗教文化でいえば、織部は当時の文化広範を統(す)べるディクテーターのような存在だったのだと思われる。利休同様、政治から叩かれる所以がここにある。

 織部の時代には、「カブキ者」呼ばれる若者たちが市中を闊歩し群れをなしていたという。下剋上の時代に遅れてきた者たちである。彼らは「生き過ぎたりや」と長太刀の鞘に銘を入れ、伊達なる装束に身を包み、カブキにカブイて、彼らなりの美意識をもって一つの時代の終焉を飾ろうとしていたように思われる。織部焼もカブイている。織部の呈示したデフォルメの美は、カブキ者たちの感性に強く訴えたのではないか。織部も、おのれの来し方を顧みて思ったかもしれない…。「生き過ぎたりや七十二、南無八幡ひけはとるまい」と。

 池田省吾の織部焼は、余人のものとは一線を画していると思う。単なる彷古に止まることなく、そのカブキようにおいて彼独自の作風作域を感じさせ、一頭抜きん出ているように思う。織部焼以外の諸手においてもそれが見て取れる。彼には織部の生き方、スタイル、その依って来たるところの精神に思いを馳せていただきたいと思う。そして、織部のスピリットを体現して如実の、池田オリベともいえる作品世界を求め続けていただきたく思い云爾(しかいう)。

葎

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