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photo:来田猛

鯉江明展Akira KOIE

Cherishing Fear of the Nature Power

2/4 Sat. 〜 19 Sun. 2017

 先に憂い後に楽しむ。レトリカルで論理立った説得のロゴス。金銭や酒色の誘惑に強い。確乎たる愛国心…。これらのことは、私たちがトップの政治家に期待するものなのではないか。先憂後楽は先見の明といってもよい。愛国心は最もあるべき大前提である。これを欠いていてはお話にならない。かといって偏固で排他的な、エキセントリックな愛国心をいうのではない。ほかにもいろいろあるかもしれない。権力の魔力にとり憑かれることなく、正気を失わない強さとか、あるいは胆力、勇気とか…。考えてみれば、ずいぶん無理難題な注文である。しかし政治というものは、宗教や芸術よりも、最終的に上位に来る現世の価値であり力なのである。昔からケンカすれば最後に勝つのは政治である。カエサルのものはカエサルに神のものは神に返すのが上策なのである。政治は私たちが幸福になるための技術であり知識であり、智慧であると思う。一方で政治は、私たちを絶体絶命の淵に追いやるような恐ろしい力を持つものなのである。だからまちがった人を選び、推戴(すいたい)したりすればえらいことになるのである。それは民主主義国家でも独裁国家でも同じことであると思う。
 
 これからの将来、私たちは、人品骨柄ともにすぐれた政治の人を得ることができるだろうか。それは偶然と僥倖に頼るしかないのだろうか。私たちのスローガンは自由とか民主主義であり、なんでも言い、なんでもしたいことができる自由がまあ保障されていて、公職は選挙によって選ばれ、多数決で物事を決定している。法の下ではみな平等となっている。そして国民主権という。しかしこの国民主権というものを、偏頗(へんぱ)な意味にはき違える人が増えてきて、いまや衆寡(しゅうか)敵せずといったことになっているのではないか。国民主権は憲法によって保障されているという。だから例によって例のごとく絶対らしい。しかし憲法という法は、人が定めた法である。人による立法なのである。それは自然から導き出されたものではなく、ましてや王権神授説でもあるまいし、国民主権は神から降(くだ)されたものでもないのである。近頃は訴訟などで、法律家が人権を主張するときは意気軒昂で、そこのけ通るぞといった権利顔、どや顔である。それを一般大衆の人たちも真似る。人権以下の、いろいろな胡乱(うろん)な諸権利が、節操なく声高に主張されている。一種の甘えである。今にバカ殿様と化した者の人口は膨れ上がり、収拾が付かなくなるだろう。
 権利という輸入語の原義はright、すなわち正しいということではなかったか。内実に正義を欠く権利は、言葉の字義からいっても権利などではなく、卑しげな欲の主張でしかない。国民主権というものは、私たちすべてが分有し、一人一人がその重みに耐えねばならないような公的権利をいうのである。そこには公共に対する責任とか、当事者としての忠誠、献身のようなものも要求されているのである。あたり前のことである。あなたもわたしも主権者だからである。
 私たちは、諸徳を兼ね備えた少数のすぐれた政治家を必要とするのではないか。自分たちの幸福のためにもそのような人を希求しなければならないのではないか。そしてその人は私たちの中からしか出て来ない人である。それであるなら、また私たちが市民とか主権者を気取りたいのなら、すぐれた彼らが具有する諸徳のうちの一部でも分有していなければならないのではないか。そうでなければ、そのような人は出て来ようがないのではないか。節制とか慎みとか、なるべく正しくあることくらいは、なんとかやせ我慢してでも私たちのエートスとしなければならないのではないか。さすれば、より上位のさらなる徳を具(そな)えたすぐれた人も、私たちのエートスを母胎として現れ出てくるのではないか。それはたとえば智慧とか勇気だろうか。そのような徳を具有する人たちのことである。
 以上の条々は昨夜、現代のローマ帝国の皇帝の就任演説を見ていて思ったよしなしごとである。まだ今はわからないが、おのれの分際、器量以上の地位についた人間は、すぐにかならず馬脚を現わす。私たちもつい最近ダブルでそのような実例を見たはずである。しかしあの人たちを選んだのはだれなのか。多数決を是としている以上、自業自得である。誰を何を責めても詮無く、お互いさまということである。そして忸怩たる思いをなめねばならないのである。そして修正しなければならないのである。修正のきくのがデモクラシーである。そういうことではないだろうか?

 鯉江明の展も今回で五回目である。彼は昨年の夏、招かれて行った外国でのワークショップで、災難というか事故を経験して、長くディプレッションの状態にあったらしい。やけども負った。日限せまりそれを聞いて、今回の個展は頓挫(とんざ)ということになるかと案じられた。窯を焚くことに、恐怖を抱くようになったのである。事情を聞いてさもありなんとも思った。しかしかといって、やめるわけにはいかない。やめればやめ癖がついてしまう。自己に克つということが一番の困難事と思われるが、筆者は、彼に人としての強さを見ていたから(ナイーブな人でもあるのだが)、火に対する恐れを畏れと転じて、なんとか向って行ってほしいと鼓舞した。仕事で回復すべきであると。筆者のもの言いが効いたわけでもないだろうが、ここにきて彼は天竺の穴窯も焚くという。彼の強さに期待し作品を待ちたいと思う。皆様何卒のご清賞をよろしくお願い申上げます。-葎-

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