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photo:来田猛

大江志織展Shiori OHE

Her Natural Abstract Eyes

3/18 Sat. 〜 4/2 Sun. 2017

 人の作品を見て、これは抽象がきいている、抽象に成功しているといったもの言いを、筆者も口にすることがあるが、そんな時は本当にほめているのである。しかし考えて見れば、そんなふうに抽象的にほめられてもほめられた側はどこがどうなのと、そこのところを具体的に言ってくれと、もどかしい思いをしているのかもしれない。しかしそうも言われてもなかなか言葉で言えるものではないのである。創作において抽象を行なうには、そも抽象する能力が要る。才能といってもよい。他事でも何かを抽象的に考えることには、それなりの能力が要るだろう。そして抽象には段階があると思う。その段階は、低いところから、高いところへと登っていくのだろう。では抽象の極みはどんなものかといえば、それは高等宗教の核心部分のような、叙述も表現もできないような境域をいうのかもしれない。私たちに身近な仏教でいえば、禅宗の不立文字、悟入の境地とか、あるいは密教の真言とか秘儀によって象徴されようとする究竟(くきょう)の世界がそうであろう。ギリシャ哲学のイデア概念などもそうかもしれない。最後は投げすてられ、切りすてられるといった言語道断の抽象がなされているように思われるのである。
 抽象するとは本来どういうことなのか。もののある一局面だけに注目し、他のことはすべて無視して、切りすててしまうということであろう。専門科学はこの抽象行為によって成立している訳である。たとえば電線に5羽スズメがとまっていて、1羽だけ打ち落したら何羽残るか。もしこれを算術の問題として処理するなら4羽だが、実際は1羽も残らないだろう。驚いてみな飛び立ってしまうからである。1羽は死に4羽はいなくなるといった具体的事情は無視されるのである。物理とか数学その他の専門科学もやっていることは同じことで、抽象することによって得られる成果を土台にして加速度的に進歩してきたのである。そしてその抽象は透徹した抽象性を帯びているものといえる。数学者などは、洗練しつくされた数式に美さえ感じるのではないか。
 一方、このような抽象性は、しごく具体的なことがらを取り扱っていると考えられる経済学とか政治学のようなジャンルにも、その根本において認められるのではないか。テレビなどで見聞きするその筋の専門家の言説には抽象性が臭ってくるが、その抽象性はいわゆる専門バカの杓子定規といった類のもので、自分たちの専門の枠内で外のことがらをさばこうとする。彼らは私たちの現実の実際問題を扱うのであるから、問題の処理とか批評に際して、彼らの言うことが役立たずの抽象論では困るのである。非常に危険でもある。その抽象性が数学のようにはっきりとしていないで、覆いかくされていることがあるからである。軽々に自分の専門外の政治のことなどに容喙するなということである。彼らは抽象によってなにを切り捨ててしまっているのか、なにに思い至っていないのか…。そこを突く暴露と批判がなされなければならないのではないか。これの批判は、専門家の立場ではできないだろう。より総合の立場に立つ哲学的批評が求められるのは、そういう場合だと言っていいのかもしれない。
 芸術のことをいえば、芸術の抽象と、専門科学の抽象では意味合いがずいぶん違うと思う。芸術は専門科学ではない。ある種、哲学や政治にも似た総合性、具体性を有する。だから抽象性のみでは作品は薄っぺらになるだろう。しかし抽象に挑戦するということは、やはり芸術の人に課された重い宿題なのである。芸術は、透き通った水晶宮のような抽象性を根本に持ちつつ、なお具体性の表現であらねばならないと思う。そういった表現が私たちの目に、抽象の向うに高次な具象として映ってくるのではないか。そのようなものが本物の芸術だと思うのである。ほとんど成功が覚束ないようなことを言っているが、要は私たちの腑にすとんと落ちるような、または一瞥電光の走るような抽象がすぐれた抽象なのである。そして、芸術が抽象の対象とすべきものは、流行もの廃りもののようなものではなくて、それは自然万象とか、人間の諸相すなわち正邪善悪美醜、そして真善美とか死と永遠といった普遍的価値であるべきで、そういった普遍的価値の表現は、おのずとその反対側にあるマイナスのものをも示唆するものとなるのである。そこに芸術が担うべき大切な役割である批判性も見出されることになるのであろう。あるいはその逆の表現も古来なされてきたことである。芸術にとって抽象は、芸術であるためのレゾンデートルなのである。
 今展の大江志織も抽象をせんと懸命に制作しているのだろう。彼女の場合、抽象というより肉体の変態というか、ある種のメタモルフォセス譚を見せられているような感じである。大江には天然の受容感覚といったものが備わっていて、彼女独特の、万象に対する尺度のようなものを持っているように思う。彼女にはそう見え、そう聞こえ、そう感じるという無二の尺度である。そしてその〝ものさし〟は不思議と人間とその肉体に向けられることが多い。そして作られるものは優に柔らかに美しく抽象され洗練されている。おそらくつねに美と共にあるエロース神の督励と加護を受けているからであろう。筆者はそのことを彼女の徳としたいと思う。
 彼女二度目の個展であります。何卒のご清鑑を伏してお願い申上げます。-葎-
Shiori OHE
1985 京都市生まれ
2008 京都精華大学芸術学部造形学科陶芸分野卒業
2010 同大学院芸術研究科博士前期課程修了

個展
2012 銀座yyギャラリー(東京)
2014 大江志織のおとことおんな展 kara-s(京都)
2015 ギャラリー器館(京都)

展覧会
2010 遊碗展X ギャラリー器館(京都)
2010 懐石のうつわ展 ギャラリー器館(京都)
2011 奇想の女子陶芸 阪急梅田店(大阪)
2012 Young Artist Marche 阪急梅田店(大阪)
2013 やきものの現在 ギャラリーヴォイス(岐阜)
2013 奇想の女子陶芸 阪急梅田店(大阪)

受賞
2008 第46回朝日陶芸展 奨励賞
2014 2014年伊丹クラフト展 入選

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