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photo:来田猛

梶原靖元展Yasumoto KAJIHARA

A Flash of Light of the Beauty

4/8 Sat. 〜 30 Sun. 2017

 古来文明というものは、侵略でもなしに平和裡(り)に人的交流や通商によって伝播するケースもあるが、押し寄せるようにあるいは併呑せんとしてやって来る場合もある。そんなときローカルカルチャーは抗(あらが)いようもなく、絶体絶命の状況に追い込まれたりするわけである。元寇などはそれが牙をむいてやってきた例だと思う。十九世紀の黒船来寇のときもそうであった。日本にとって世界文明といえば中国インドだったが、今日は西欧近代文明が世界を覆い尽くしている。私たちにとっての世界文明といってもよい。日本は変わり身早くそれをよく学び吸収した。そうしなければ亡ぼされていたのかもしれない。そして近代化なるものに、過去の一世紀、二世紀を見れば、まあまあ成功した稀有な一例といえるのだろう。実際、先の大戦の敗戦までは政治的自由を保てたのである。日本は、世界文明に屈したが学んで、なんとか及第生としてやってきたのではないか。
 中国文明はインド文明とともに偉大だった。その芸術や文学や思想は、私たちに決定的な影響を与えてきた。いまでもそれらは捨てがたい一個の大きな魅力である。そして今日の中華人民共和国が、あの偉大な文明の過去からの連続体であるならば、いまの中国の人々も独自の文化をもつ一個の文明国民とも考えられる。しかしながら中国文明は、それ自身の内部的発展によっては、今日の文明を生むことはできなかったのである。今日の世界文明は中国文明から発展したものではないということである。そしておよそ過去の二百年、中国の人たちは世界文明から学ぶことに成功していないし、言っては悪いが今日でも依然として落第生であることを暴露しているのではないか。
 中国は、近代になって西欧キリスト教文明によって侵され、植民地のようなことになったわけである。その後いろいろな力学が働いて、日本も入り乱れての軍閥跋扈(ばっこ)の内乱のなかから共産党が結局最後に残ったわけである。ここにすべての淵源がある。共産党はマルクス主義である。マルクス主義は西欧近代社会のなかで生まれた思想である。あれは哲学というより一種の経済理論で、多くの後進国で実験され、ことごとく失敗し不幸を生んだ。とはいえマルクス主義にも採るべきものはあるのだろう。マルクス主義の正統というものもあるのだろう。そのマルクス主義の正統からいって、いわゆる毛沢東思想はどれだけ異形なのか。レーニン主義の比ではないのではないか。そもそもマルクス主義には、西欧プロパーの西欧的意味というものがあるのである。マルクス主義を生んだ西欧近代社会に対して、ビザンティン文化のロシアはまだしも、当時の東洋の大国、中国はまったくの別社会だったのである。いわば木に竹を接ぐような無理をしたのである。そのような選択はだれがしたのか。諸悪の根源は政治にある。共産主義は後戻りのない政治体制である。後戻りするときはすべてご破算のときである。そして今なお中国は、一党一派による独裁国家としてある。冷酷で無惨な官僚階級社会である。もはや私たちは、彼の偉大な国に対しなんのイリュージョンももってはいないのではいか。
 しかしそれでも中国とて西欧近代文明の犠牲者といえるのかもしれない。マルクスその人も西欧近代社会の一員である。しかしまた、世界文明の学びと応用に失敗した中国の人たちの自業自得ともいえるように思う。筆者はお隣の、現在とこれからの中国にいろいろな剣呑なものを感じる。その一方で、それにしても中国の善良な民衆の苦しみは、いつまでつづくのかと同情も禁じ得ないのである。
 お話変わって、唐津一帯の平安末期からの支配者は波多氏一統で、玄界灘を望む岸岳城に拠って小国を営んでいた。桃山期にいたって十七代目当主、波多親(ちかし)という人が出る。この人、倭寇貿易の親分である。朝鮮半島は目の前であるから、当然半島の人たちとも交流がある。半島人がやって来る。いや半島人だけではなかったろう。結構アナーキーでインターナショナルな状況があったように思う。唐津焼の発祥は親の代と目されている。岸岳山麓に窯が築かれる。朝鮮式である。殖産し興す人、作る人でいえば、親がしたがって唐津焼創業者といえる。1580年代といわれている。あの古唐津の精華、奥高麗などが焼かれた。唐津焼のもっとも幸福な時期だったかもしれない。しかしそれもつかの間、秀吉の存在が親の運命を変える。親も文禄の役で朝鮮に遣らされる。朝鮮では塗炭の苦しみをなめたことだろう。清正などは壁土を食べて奮戦したという。そして親は遠征の帰途、故郷の土を踏むこともなく、船中で秀吉から配流を申し渡されるのである。波多氏は絶える。
 これ、文明が地方勢力を併呑する図にも似ている。老耄(ろうもう)のファナティック、秀吉が一種の世界文明で、親がギリシャ悲劇にも似た主人公に見えてくる。当然岸岳の諸窯も雲散してしまう。だからピュアな意味での発生的唐津は十年に満たないのではないか。
 本展の梶原靖元は、親(ちかし)ゆかりの岸岳山麓に安堵する作家である。梶原にとっての唐津における端緒は、この十年に満たないピンポイント的な時空間に、最初の杭を打ち込むことだったように思う。そこから彼の世界は半島から大陸へと遊弋、倭寇的広がりを見せていく。杭打ちは彼の美意識がそうさせたように思う。オリジンとなる発生的な美は、一閃の光芒を放って消えゆくものなのである。-葎-

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