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photo:来田猛

柳原睦夫展Mutsuo YANAGIHARA

Memories Deep in His Soul

6/3 Sat. 〜 25 Sun. 2017

芸術の人の幸福について…。昨今は多様な価値観という。多様なといってもミソもクソも一緒で、そこに価値の区別も差別もない。そしてその多様に寛容であれという。しかしこのような傾向は、人の生き方を惑わせ、分裂をもたらすだけのようである。人はそんなに多くの価値を受容できるものだろうか。思うに、人間としてなにか一つの価値に殉じられる人生こそ幸福だと思う。しかしこのような生き方もなかなか出来るものではないかもしれない。結局幸福というものは、この世も人も常ならぬ存在であることを思えば、一概に定義などできるものではないのだろう。多様な価値観もいいが、人は人、人生いろいろといった構えでいいのではないか。私たちは幸福に対しあまりラッシュせず、幸福に対し用心深くいるほうが無事なような気がする。

芸術の人の幸福とはなにか。言いかえれば、芸術の人はどのような価値を、自身の一大事とすべきなのだろうか。唐突だが芸術の人は、エロース神に嘉(よみ)されなければ幸福は望めないと思う。世の常の人とは少しくちがって、別してそうだと思う。エロースとは、かいつまんでいえば、永遠とか不死、美のイデアへ人を導こうとするもので、一方、その途上で試練を与えたり、陥穽(かんせい)を用意したりするダイモーン的神といえようか。といっても悪魔ではない。神と人間の中間者的な存在というところであろうか。この神は、古代ギリシャにおいて祖神ともいわれる神であって、歴史上のさまざまな哲学者、とくにプラトンの饗宴という対話篇のなかで、問答法によって徹底的に論じられている。ソクラテスもいる登場人物たちは、エロースの像を、哲学のノミでもって彫琢(ちょうたく)しつくそうと試みる。そして、論理のロゴスになじまないところ、たとえばエロースにおけるイデア論とかあるいはエロースの誕生秘話などはミュートス(神話的物語)の形式で語られていく。あらゆる哲学的接近を経た上に、ミュートスが加えられるのである。そしてエロースはついに文学的にも潤色されて、より鮮烈な姿を私たちの前に顕わにする。プラトンはそういうミュートスの形式を哲学の叙述にも用いるということをしている。深いのである。現代のさかしらな哲学には真似のできないところだと思われる。

繰り返すが芸術はエロースなしでは考えられない。高められた段階のエロースが、芸術の人を制作へと向わせる。作りたいともなれば、もう面倒なんてものはない、ただ制作したいという気持ち、それがエロースというものなのではないか。そしてエロースはつねに美とともにある。芸術の人が光り輝くのは、そのようなエロースとともにあるときである。それはスリリングな冒険行のようなものである。ものを生さんとして勃然(ぼつぜん)たる昂揚を覚え、芸術の人は上気してくる。いても立ってもいられなくなる。そして心魂奥深くの、自分も気づかずにいる、なにか善美なるもの真なるものを、それの断片でもいいから、エロース神に遊んでもらいながら想起しようするのである。その想起に達したときの歓喜。そんなときの彼は神がかりのようなことになっているのだと想像される。芸術の人がものを生すという行為の由縁の秘密は、どうもそのような状況というか場面のことなのではないかと思われるのである。エロース神との同行二人(どうぎょうににん)なかりせば、善美なるものは生せないということである。

柳原睦夫という人は、久しくエロース神に嘉されてきた少数者だと思う。この作者の作品は半世紀を超えて健在である。移動し変化しながら、長年月に耐え、自己崩壊を招かず、多面性を見せながらも同一性を持し続けている。こういう人は稀である。制作に当たっては、深い思惟を加えるという悩ましい過程を怠らない。柳原の作品には、形而上に関わるものが秘められている。それは強靭な知性に裏付けられている。知を求めるということも、美への一つの希求であろう。知性と密接し、そこから導かれる美、これもエロース神の大いに嘉するところなのである。

しかし柳原もすでに傘寿を迎え老境にある。ひょっとして柳原にとっては、老年と死は現在の最大の敵なのかもしれない。ひょっとして近ごろはエロースが、さっぱり自分と遊んでくれないという嘆きを嘆いているのかもしれない。老いにある人なら誰しも無理からぬことであろう。しかしながら、本展写真の作品は、またも変化を見せ、知性の流れをもつ柳原の心魂の奥底から想起されたような風情で一つの達成を見せている。これは器物であるが、豆莢のような、釉に満たされたクリークが見込底へ向って収斂(しゅうれん)していくように見える。これには大きくぱっと開いた開口部が必要だったろう。そして、トポロジー、トポロジカルな連続変化というような〝動〟を予感させる。それにある種の迫力さえ感じる。ある評論家は、柳原の作を、トポロジカルに「うつわ」とオブジェの間を往還するものと評している。この新説にはまいったが、言いかえれば、柳原のものはすべて生き生きとしているということであろう。

美が生き生きと輝きを放つのは、エロースの働きである。ただし、私たちのほうでも心が積極的に燃えなければ、美もまた輝かないだろう。柳原はみずから能動的にエロースと通じ、おのが心魂を奮い立たせようとしている。ここに老境にも耐える青春があるということを証明しているように思われるのである。以って後進は手本となすべしと思い云爾(しかいう)。

葎

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