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photo:KORODA Takeru

川端健太郎展Kentaro KAWABATA

Virtue of The Beauty

10/14 Sat. 〜 11/5 Sun. 2017

 政治家をはじめ、人はなにかあやまちを犯したときに〝不徳の致すところ〟と言ったりする。これは便利な言い回しで、筆者なども、軽口をたたくように言ったりする。そして言えば言うほどに使い古され、陳腐な言葉になってしまう。しかしながら、私たちの犯す過誤というものは、詰まるところすべては不徳に原因があるのではないか。いいかえれば不徳であることは、私たちの不幸の根本的な因縁をなすものなのではないか。それなら不徳の致すところという言いようは、自己批判というか自省の言葉としては、本当はもっと痛切な響きを持っていなければならないのではないかと思う。
 一方めったにお目にはかかれないが、諸徳を兼ねそなえた有徳の人は、人生いかに生くべきかといった問題であまり迷うことがないのかもしれない。そのような人が人生の折々で行う選択は、つねに堅固な意志に裏打ちされていてあやまちもほとんど犯さないのだろう。つまりこの世の確実なもの、善美と思われるものを見定める知恵をそなえているのだろう。しかし凡夫凡婦たる私たちにはなかなかそうはいかない。おのれのため、人のためによかれと思ってした選択が裏目に出ることのほうが多い。まことこの世はままならぬのである。
 それにしても徳というものは、容易には手の届かぬ高嶺の花なのか。それを我がものとし、おのれの生き方に即させることは、生まれついての少数者だけが歩める道なのだろうか。昔は忠孝といって、徳目の第一に教え込まれたが、今はほとんど跡形もないようである。忠孝がその他の徳目に対して特別重要な徳目であるかどうかは疑問だが、しかし一つの美風ではあったのだろう。それが戦後あっという間に滅びたのは、二千年来の儒教の教えを教えなくなったからである。してみれば私たちのほとんどは、徳に類するものは本然的に備えていないということであろう。忠孝は、自然の情ではなかったのである。教え教えられて、やっと一つのエートスとして維持されるものだったのである。筆者にその資格はそもないので、復活せよというのではないが、親孝行などは、孝行する方もされる方も、往時の人間とは人間が変わってしまっている。孝行息子とか親不孝者という言葉もすでに死語である。子である孝行する側は、孝を教えられていないし、孝行される方も、親として孝行されるに足る資格を失っているように思われる。畢竟、なんぼでも税金が掛かるという次第となるのである。これあるかなと言っているだけである。
 私たちはみな心の不安のなかで、なにかゆるぎのない確実なものをさがし求めている。近頃の多様性では惑うのである。それが見つかり、確信できる価値ということになれば、いかに生きるべきかという問題は解決するのかもしれない。そのような確実なもの…。筆者はやはりこの世でもっとも確実なものは美であると思う。美は最重要な徳目の一つだが、べつにむずかしいことを考えずとも、美しいものは美しい。そこに他事はなく、迷いはないだろう。眼前で美は完了している。美は、私たちの好悪によって決定されるものである。好悪というのは、その人の生まれつきとか育ち、あるいは教育によって身についた尺度のようなものである。その尺度で美醜の判断がなされ決定されるのである。美はまた私たちを神に近づけ、神に接するの思いをさせてくれる。そして宗教にも似た救いのようなものまで感じさせてくれる。清浄で清涼な境地へいざなってくれるのである。
 しかしながら、美を人生の目的に定めて生きるといっても、誰にでもできることではないかもしれない。美は私たちに美しい眺めを提供し、永遠の相さえ垣間見せてくれるが、他方、私たちの生き方をきびしく律する。美のなかに分け入るにつれ、いよいよきびしく私たちは試される。風流に生きるということがあるが、それは犠牲的で極道的な生き方を強いられることでもありうる。美は私たちに冒険を促し、ある局面ではここで死ねと要求してくるかもしれない。この濁世というか浮世で、美を人生の中核に置くということは、そういうしんどいことなのかもしれない。美という徳もやはり高嶺に咲く花なのだ。
 川端は、言葉少ない人であるが、その鋭敏で詩的な感性は、余人に見つけ難いものがある。彼の創作のモメントは、生命に対する全肯定、謳歌を中心点に据えるものだと思う。しかし同時に複眼的に、死というものも見据えた生へのまなざしがある。野の草であってもその死を微細に観察し、その死を思うからこそ、彼の目に、作品に、生が鮮烈に映えてくるのだと思われる。彼は生きとし生けるものの美の諸様相に憧れ驚く。彼独特に、変なもの言いだが、昆虫のように微視的に憧れ驚く。そして美はつねにエロースとともにある。エロースは美のイデアへと人をいざなう。その途上で人間に死さえ示唆する危ない神様ではあるが、川端は天然にかわいがられ、愛されているようである。それは川端が生得に持っている徳のなせる業(わざ)なのではないかと思われるのである。         葎

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