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photo:Takeru KORODA

金憲鎬展Hono KIM

AnthologyⅠ

9/1 Sat. 〜 16 Sun. 2018

 近頃は、というよりもっと以前かもしれない、いつのころからか私たちの社会はますます不自由な、窮屈なものになりつつあるように感じる。

 なんでも言いたいことを言い、したいことをすることが出来るというのが、自由というもののラジカルな定義だと思う。しかしそういった夢想的な自由は、独裁者にはあってもかえって自由社会ではあり得ないのであって、いろいろな自由に対する制限が必要となるわけである。民主的な自由社会を護持するためにである。そういった、皆で自由を分有するために受け入れなければならないさまざまな制限は、私たちの節制とか正邪を見分ける価値観によってなされるのが一番いいのだろう。しかし現実は実定法がその役目を担い、肥大化させている。不文あるいは慣習法ではタガが効かなくなっているのである。道徳もそうである。成立する法律の数は近年おびただしい。そんなことまで法律にするのと思うことがある。まもなく六法全書は分厚くなりすぎて抱えきれなくなるのではないか。くだらない法律も多い。しかしながら自由社会の一員ならば、私たちはそれに従わねばならないのである。かなり最悪なことをやらかす人間も増えてきているような気がする。ヤクザにギリギリ追い込みをかけ、彼らの居場所をなくそうという立法も盛んだが、きょうび、ヤクザ顔負けのカタギだってそこいらにいっぱいいる。廉恥(れんち)することをほとんど忘れたような人間は増加の一途である。法律は、そのような厄介千万な人間をターゲットにして、そのレベルまで降りていって、立法あるいは厳罰化されるのである。しかしそのような法にも私たちは服さねばならないのである。このような一大傾向の行く末はどのようなことになるのか、とても鬱陶しい気分になってくるのである。
 このあたりで古人に習って、自由というものの意味を拳々服膺(けんけんふくよう)しなければならないのではないか。学校では正しく教えられているのだろうか。まず自分たちの住む国家社会が他国によって支配されていないこと、それが自由の根本的な意味であろう。自由というのは、国家が独立し存続しているかぎりにおいてまず成り立つわけである。
 それから国内では、独裁政治、個人や一党一派による独裁専制が行われていないということ、このことも自由にとっての大前提であろう。
 以下、公的自由のためには、ものごとを少数者の意見によってではなく、多数者によって決めて行くということ。多数決原理がデモクラシーの基本である。とんでもないことが多数決されることもあり得るだろうが、ほかに仕方がないからそういう方法をとっているわけで、それが民主政治の仕方なさというものなのである。多数決の際に少数の反対意見も出されていたのだから、間違いだとわかったときに軌道修正することも民主制のもとでなら可能なのである。
 次に、法律上人びとは平等な取り扱いを受けるということ。法の前の平等である。その意味は、裁判沙汰などにおける原告や被告を平等に取り扱うという意味である。片方が金持ちであるとか、社会的地位が高いということを考慮しないで法律上平等に取り扱うということであり、その他それ以上の意味はない。法の前に置かれたら、神様の前にあるような錯覚をして、すべての人間をローラーでおしつぶすような平等を声高に主張するその種の人たちがいるが、完全な了見ちがいである。
 さらにその上で、人はその人品骨柄と才能によって正当に評価され、公職にも就くことができるとされていること、以上がつまり公的自由といったものの古典的定義なのである。個人の自由とか権利は、これあってその後に、公的自由に担保されてはじめて派生してくるのである。私たちはこれら自由の土台となるものを正しく奉じ、それにかなっているだろうか。あんまり成績が悪いと、現在私たちが享受している少し情けない自由も、たんなる一つのエピソードとして終わってしまうような気がするのである。
 余白が尽きてきた。金憲鎬(Kim Hono)は、生まれはこの国だがいまもペーパー上は異邦人らしい。法律上どのような扱いを受けるのか詳らかにしないが、そのようなことからは超然としている。筆者は彼を芸術の人として見ている。また知性の人と見ている。彼の作品のエセンスは、彼自身で到達した精神の自由に由来していることが見ればわかる。過去現在の政治的歴史的流れを彼岸から眺めているような人でもある。彼のような人を一人立つアナーキストとでもいうのかもしれない。アナーキズムは、個の絶対自由と秩序の両立を謳う。人間の悪を思えばそれは無理筋の夢想に過ぎなかったのだが、人が夢見るようなそのような自由を、アナーキスト金憲鎬は可塑自在な素材を得て、自身の芸術のうちに表現し得ているといいたい。筆者はそんな世にもまれなアナーキストとの逢瀬を重ねるたびに、彼の周囲に一種独特の自由の風が吹いているのを感じて、ふっと息をつくことができるのである。
 金さん、捕まることはないと思いますのでご安心を。-葎-

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