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photo:Takeru KORODA

浅野哲 展Satoshi ASANO

Grace from Metaphysical World

3/5 Sat. 〜 20 Sun. 2022

 浅野哲の作品を初見したのはいつだったか。彼のそれはいわゆるアラベスク、イスラムアラビア文様といったものを連想させるものだった。もう二十年以上前になる。そしてこの間、何度も個展をお願いしてきた。彼はイスラム美術のモザイク的文様をやきものに合一させようと、その作域を一つこととして継続してきた。そんな彼の継続に対し尊敬と評価を寄せたく思う。変転のうちに様々な変化と移動を見せる作家が一方にいるが、浅野はその対極にいるような人だと思う。ちょうど落語家が一つの噺を幾たびも高座にかけ、磨きあげ洗練を加え、至芸の域に持って行くようなものだと思う。そのためには、自身の作品に対しては常に不足感というものを抱き続けねばならないのだろう。そして不断に否定や捨象、また付け加えをなしていかねばならないのである。いわばそのための消しゴムのようなものを心に蔵しているかどうかが問われるのではないか。悩ましい作業だと思うが…。浅野の消しゴムは使いに使われ黒ずんでチビているだろうか。
 お話変わって、また寄せては返すの伝で、同じようなことを言っているが…、
 イスラムでは偶像崇拝を禁じている。キリスト教も仏教も、はじめは偶像を禁じていた。アラブとヘブライというか、イスラム教キリスト教は、ユダヤの旧約を共通の聖典とする同根の兄弟宗教である。いずれも神に人格のようなものを脚色したから、人格神を偶像に表現することなどもってのほかだったのだろう。宗教的核心は形而上のものとして、神のロゴスとして神聖化する必要があったわけである。しかし宗祖がいなくなると、禁じられたはずの偶像が群れをなして現れるのである。近世のヨーロッパでは、宗教改革の際に再び偶像との決別を誓ったが時あたかもルネサンスの芸術家たちは、奔出する情熱のままに偶像を作りまくっていたのである。仏教はといえば、はじめからグズグズで、そのドグマは極大から極微にわたる宇宙スケールの根本摂理を説いているのだから偶像などあってもなくてもよいというようなことに落ち着くのだろう。仏教の世界で、偶像に起因する大規模な戦いや破壊のようなことは起こらなかったのではないか。その点イスラムはまじめ過ぎるように思われる。信仰がまじめでないはずもないのだが、宗教的にまじめ過ぎるということはどういうことか。人をして正義の権化となしどのような所業にも免罪符を貼り付けるということになるのである。信仰の恐ろしさはイデオロギーの比ではない。イスラムでも偶像崇拝を許すというか、目こぼしするような鷹揚さがあったらよかったのにと想像してしまう。
 
信仰とは絶対的確信であり歓喜のパッションであると思う。その発露が物的な造形へ向うのは自然であり、人間精神のなせる神まねびでもある。それが芸術というものの発祥だったのではないか。記された言葉だけではリアリティーに欠けるのである。書かれたものは解釈次第で悪魔の呪文ともなり得る。過激にあるいは原理主義的に刷り込みに利用されるのである。それよりも物的造形である偶像に面前し、頭でなく感覚によって直感的に会得されるもののほうが、宗教的体験としてより健康なように思われる。あやまたずにその宗教の言わんとしていることが心に刻まれるのではないか。人は生きている限り迷っている存在である。偶像に宿された善なる魂魄に触れて、あるいは超然の美に気圧(けお)されて、一時にせよ無明の迷いに光が差す。そこには偶像との一対一のリアルな感応や自省があったりするのではないか。そして自己の悪や卑小さに、じかに気付かされることがあるのではないか。
 
芸術は宗教に随伴しながらおびただしい偶像を生み出してきた。芸術の歴史は宗教に侍(はべ)り従うものであったともいえる。過去の芸術家たちは、宗教という人間精神の最上位の価値体系のうちに題材を求め創作してきたのである。その題材や物語は、芸術家たちの創作のパッションをかき立てて止まなかった。いわば、根本のところで芸術家という人種はみな偶像崇拝者なのである。ひるがえって現代の芸術家たちはどうか。神を殺し、信仰を忘れ、様式(打ち破るべきものでもあり)を見失って迷い子となっているのではないか。現代の芸術は一体どのような偶像を私たちに呈示し得るのだろうか。
 
筆者は浅野に、ないものねだりかもしれないし、またもちろん彼の作品に敬意を払いつつではあるが、なにかもっと、彼が一つこととして執心する装飾世界の根源的なところ、あの乾いた大地にあって、宗教的に圧倒的に人々に迫る数学的幾何学的文様の意味とは一体如何なるものなのかを、深く考え知った上での制作を期待したい。さすれば形而上の世界からの恩沢が彼の作品に降りて来るのではないか。さすれば一層彼の作品に遠景というか深みが加えられるのではないか。ほとんど妄想ではあるが、二十年を経ての彼に対するエールとお取りいただきたく思い云爾(しかいう)。-葎-

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中村譲司展
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