池田省吾の作品は、一旦彼の手を離れるや、常にほとんど払底(ふってい)するほどに購(あがな)われてしまう。直截な言い方をすれば売れまくっている。筆者のところだけでも十年余の長きに渡って。ずっと供給が需要に追い付かないといった体である。筆者ごとき者もそのお蔭に連なっているのだが、そして売れるに越したことはないのだが、衰え知らぬこの勢いというか状況の継続がなんだか不思議に思えてくる。そんなに売れて大丈夫?といった気持ちになってくるのである。
作家にとって作品が動くということは如何(いか)なことか。それは先ずもって嬉しいことであろう。購われるとは、見物側に享受され、世に入れられるということである。とくに新進ならこれにまさる励みはないであろう。やっと陽の目を見たような心持ちなのではないか。作家は誰に頼まれもしないのにものを生(な)さんとする人である。孤独と不安のうちにある人なのである。そうして離陸していく少数者がいる。しかし一旦博した人気はいつか衰える。世の習いである。しかしまたそれにも耐え、越えていくさらなる少数者もいる。池田はさしずめそのような稀人なのだろうか。
再び売れるに越したことはない。しかし売れる前と、売れた後を顧(かえり)みたとして、どちらが幸せかどうかは簡単に言えないのではないか。売れるということは、覆いかぶさるような期待と、〆切に追われる過密な日常が付いてまわるということでもある。貧しくとも売れる前の雌伏の時間のほうが充実し、かえってものいう作品を生さしめるということもある。文学の世界でも処女作あるいは初期作をついに超えられないといった作家がいるものである。売れると周辺がにぎやかになる。いろんな人間が寄ってくる。筆者もその一人だと認めねばならない。商売人は、商売は根本にイカサマを含むものであるから、おのれを棚に上げて言えばいやなものなのである。池田にとってポイゾナスな人間との接触も、長い間にはあったのではないか。作家はピュアで世間知らずの人が多いので、世俗的な毒に毒されることがある。加えて見物側の要求あるいは評価ということがある。それは残酷なものである。作品に新展開を見せても、いやこれではなくあれが欲しかったなどと思ったりするのが見物である。欲しいとなれば作家のことはお構いなしで、なんぼでも作るだろう作るべしと押してくる。作品に移動と変化といったものを期待しそれを見たがる。これがしんどい。売れっ子は大変なのである…。かくて作家は耐えきれず、精神の平衡に波瀾をきたし、いやになり、結果作品がダメになることがあるのである。
翻って思うに池田はその点大丈夫の人のようである。しかし彼にしても、いつか電話口で”厭きてきた”という言葉をぽろっと漏らしたことがある。作るに倦(う)むといったことだったのかもしれない。もう長年ロングランで走ってきた彼のことである。疲れもあると思う。さもありなんとシンパシーを禁じえなかった。
彼の場合、種子島にいて制作していることが、容易に近づき難い、ある種の隔絶といった意味でよかったのかもしれない。亜熱帯の太陽の光はあっけらかんであろう。その風土、広いといっても島のなかである。人間関係、人情も濃密に生きているのではないか。それと遠く察すれば、彼はソフトボールに興じているようだ。いや興じるというより熱中の様子である。自身のクラブを主宰し監督し、よくは知らないがトップクラスの有名クラブだそうである。ご子息にいたっては実業団で選手権を獲ったエースとの由。チームプレイのなかでの勝利の味はまた格別であろう。彼にとっても度々のカタルシスになっているのではないかと想像するのである。
今回送られてきた虎の塑像は力感に満ち、相変わらずの池田省吾が憑依(ひょうい)しているが如しである。端座し天を仰ぎ嘯(うそぶい)いている。首から上がはずれる香炉に仕立てている。虎口が香煙の出口になっている。首と胴は一点でこゆるぎなく合わさる。筆者はこの人にはタレント(才)というよりも天からのギフト、天稟(てんぴん)があると評したことがある。それは彼の心魂に根ざしているものなのか。そうだとすればその美しさの汚されることなく、いつまでも永からんことを願うのである。何卒のご清鑑を伏してお願い申上げます。-葎-
展覧会は開けてみないとわからないものですが、池田さんの展では毎回会場は混乱し怒涛のごとしでして、時間の先後で決まっていくものですから、またその先後も判別し難いときもあり、弊館サイトをご覧になってのお客様には毎回大変心苦しいことが多々ございました。よって今回はサイトへの作品のアップは見送らさせていただくことにいたしました。状況によっては残り福を、日をあらためて二三日うちにアップさせていただくことになるやもしれませんが、以上ご賢察の上ご諒諾賜りましたら幸甚に存じ上げます。申し訳ございません。
ギャラリー器館拝