思えば金憲鎬には個展のたびにリクエストというかお題を、それも無理すじのお題をぶしつけにもお願いしてきた。他の人にはめったにないのだが、彼にはなぜかリクエストしてしまうのである。それが彼を困らせるような多分に抽象的なお題で、お願いの際の口上は忘れてしまっているが(そのときは一生懸命しゃべるのだが)、たとえば前回では、時間、永遠の模像のようなものとしての”時間”をテーマにお願いしたりしている。これには彼一流のヒネリで直截(ちょくさい)にも掛け時計そのものがどっさりと送られてきた。それがまたこの人が作ればこのようなものになるのかと、さすがの感一入(ひとしお)で、動かせばしばし見入ってしまい、お題を出したこちらが時間というものにあらためて思いをめぐらせているといった図になるのである。
今回もまた厚かましくも押し付けてしまった。鳥獣虫魚、生きとし生けるものに人間の諸相を映し込んだものを作って頂戴とお願いしたのが一年ほど前だった。陶のフィギュアということで、いわゆる獣、動物が主になると思う(平面の絵付けも見てみたい)が、たとえば、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)している動物、何かを狙いすましている動物、何かを考えている動物、情けない表情の動物、打ちひしがれている動物、怒っている動物、私たちにシニカルな目を向けている動物というようなことを言ったと思う。そして作っていただく際にはこれらに目力(めぢから)といったものを込めていただきたいとお願いした。向うから人間を見つめる目である。そこに金憲鎬による人間批評の様々が見られるのではないかと思ったのである。少しく面白そうにしてくださったのでほっとしたのを覚えている。こちらも緊張して憚りながらダメもとで切り出しているのである。
11月に入って、もしかして撮影用の作品を持って帰れるだろうかと彼の仕事場を訪えば、もうすでに十点ほど出来上がっているではないか。金さん乗ってきているのかなと思いうれしくなった。この人の集中力は別格なのである。一点一点に目力があった。それがえもいわれぬ表情ともあいまって、ダイレクトにあるいは屈折を経てこちらに迫ってくる。
ホモ・サピエンスという動物は、この地球上で大きな顔してわがもの顔に振る舞っているが、人間以外の動物と引き比べてみれば、どっちが上等かわからなくなる。例えば本来動物はおのれの死期は自分でさとる能力を具えている。地上にいる大小の動物は、ある日卒然と感じたことのない胸騒ぎがするのか、もうこれまでと、悄然(しょうぜん)とどこかへ去り、再び戻ってこない。この一事を見ても、周りに迷惑をまき散らして死ぬ人間より上等に思われる。それから人間の欲はきりがないが、彼らの欲は有限である。欲望の限界効用逓減(ていげん)の法則をおのずから知る。必要以上にむさぼらない。のべつ発情しない。何用もないのにあちこちと移動しない。利口な犬の人間への忠義立ては、抽象すれば武士道の神髄に通ずるのではないか。決して裏切らない献身というものを見る。あの忠犬ハチ公とか、南極越冬隊のタロジロなどが思い起こされる。大きく言えば善も悪もないのである。
それにしても動物たちは、一体人間をどんな目で見ているのだろうか。ガリヴァ―旅行記のジョナサン・スウィフトは、人間に近い姿をしているヤフーという生きものに人間を仮託して、知性を持つフウイヌムという馬の目から見たヤフー(人間)を痛烈に諷刺している。フウイヌム(馬)は透徹した目で人間を観じているのである。あまりに人間のいやなところをえぐり出しているので辟易(へきえき)とした覚えがある。
筆者は、金憲鎬の前に出ると見透かされているような気持ちになることがある。そして面白く思ってくださっているのか、よくおちょくられる。もちろん彼の優しさの現われだと思っている。いやある種の怖さの現われでもあるかもしれない。そしてスウィフトではないが彼も透徹した目を持つ人だと思う。それは芸術の人としての目である。見て観じて抽象する目である。それが土という素材を得て自在に生かされているのである。筆者はそのような人と目している。さても後に続く作品が楽しみで鶴首しているのである。-葎-
(謹んで新玉のお慶びを申上げます 本年も何卒のお引廻しを伏してお願い申上げます)
金憲鎬展Hono KIM
Animals as A Mirror of Ours
1/13 Sat. 〜 28 Sun. 2024