平安末期、後白河法皇の手になる梁塵秘抄(りょうじんひしょう)という今様歌集に、遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声聞けば、わが身さへこそゆるがるれ、というのがある。梁塵秘抄中もっとも知られた一首だろう。七五調で当時の白拍子などの芸人が歌ったものらしい。遊女とか傀儡女(くぐつめ)の歌も入っている。そう聞けば哀感を帯びてくる。貴賤でいえば賤民というか、底辺にあった人たちの声を拾遺したのが後白河院だったことにもある種の感動を覚える。王朝文化は言の葉というものを、身分がどうだからといってないがしろにしなかったということなのだろう。
唐突だが、芸術の人、作家であらんとする人は、もの生そうとするなら遊びをせんと決心することが肝要である。そして遊んで遊べる人、遊ぼうとしてしょっちゅうずっこける人、そもそも遊ぼうという発想がない人、というふうに分類できると、つとに筆者は見ている。どちらが上とか下というのではない。もの生す人ならまじめに決まっている。人それぞれである。そんなことは分かった上での剣呑な遊びのことである。
人は長ずるにつれ童子のように無心に遊べなくなってくる。遊んでいるときの子供に他事は一切眼中にない。大人が見て怪我するぞと、はらはらするような遊びをしたりする。そのまなこを覗きこめば一心不乱である。そんな子供を見かけると、もう戻れないおのれの失楽園を見るようでうらやましく思う。子供にとって外の世界は未知なものに満ちあふれ、驚きの連続であろう。遊びのネタに事欠かないのである。冒険的な、ときには残酷な遊びにも喜々として興じ、まじめに遊んでいる様子が窺える。かの良寛和尚も、子供のそういう善悪不知の純真さに仏性を見る思いがしたのではないか。もっともそのような子供らしい子供はあまり見かけなくなったが…。
梶原靖元の展も今回で記念すべき十回目となる。長きに渡り仲良くしてくださったことがまこと有難い。彼はその度ごとに一念奮発、遊ばんとしてくださった。初回からほぼ十年に渡るが、だからその間新鮮だった。見物は残酷である。だからこの次はその次はと作品を期待し、鶴首し、到来を待った。危うき遊びに遊ばんとして、彼はそれの出来る人なのだが、だから少しく面食らわせられることもあった。一番意表を突かれたのは、盆石のような岩石がごろりと送られてきたときだった。焼成した岩石なのだが、自ら銘名して”金剛山図”としていた。有田近郊の龍門というところで採取した流紋岩で、別名石英粗面岩ともいい、天草陶石としても有名で、陶磁の素地や釉薬に重要なマテリアルが入り混じっている岩石だった。それを窯の中に放り入れたのである。釉の成分がうまく熔融して金剛山図といった景色をなしていたのを思い出す。金剛山は朝鮮半島の聖山である。彼の豊かなイマジネーションの遊弋がこれを生さしめたように思われた。
そしてさて今回は如何にと待っていると、染付の小品が数点やって来た。短い手紙に「今回のテーマは、くらわんかです」とあった。ん?くらわんか手といえば、江戸時代の京大坂間の淀川で、くらわんか船が客船に酒食を供した粗相な呉須絵磁器かと…。そして絵付けが有田のある女性絵付け師の筆だという。だからコラボというか合作である。「梶原さん、これもいいが、梶原さんのワンマンショーなので、それにちょっと花を添えるくらいの登場はあっていいと思いますが、やっぱり梶原さんご自身の筆のものが見てみたい、OK?」というふうな長めのやり取りがあったのだが、結局聞き入れてくださり、ご自身もくらわんか手の絵付けにトライしてくださることに落ち着いたのである。ほっとした。ちなみに今回のくらわんか手の素地は、鍋島藩窯のあった大川内山との由。彼らしく自ら現地採取した陶石である。というような経緯があったので、写真は送り直してもらった珠洲風の酒盃と相なった。
また意表を突かれたようなことだったが、くらわんかという江戸中期の粗相な、しかし庶民に愛された器に彼は遊ばんとしたのだろう。粗相なものを、いわばやつして、彼独自の翻案をしたかったのだと思われる。拙で粗相だからこそむつかしいかもしれない。さて、力の抜けた融通無碍の域にあるような、梶原オリジナルのくらわんか手が出てくるかどうか、大拙の心で子供のように遊びをせんとして果して遊べるかどうか…、やっぱり鶴首させる人なのである。
今回は絵付けが主となるそうです。その他、還元炎の思いっきり効いた珠洲手など様々にまじえての構成になります。何卒のご清賞を伏してお願い申上げます。-葎-
梶原靖元展Yasumoto KAJIHARA
Playing with Such Asventure as Children
2/10 Sat. 〜 25 Sun. 2024