唐突だが金平糖のイガイガはなぜできるのか、突起の数はいくつ形成されるのかといったことについては、はっきりした定説がないらしい。ケシ粒を芯にして衣になる糖蜜を加えつつ、煎り釜を斜めに回転させながら何日も煎るという。思えば不思議な南蛮渡来の菓子である。ケシ粒がアラ不思議、イガグリ玉へと生成するように変化するのである。
案内状用の写真をどうしようかと考え込んでいるうちに、大江の作品をフクロウが眺めているような図に落ち着き、これで行こうということになった。突起を伸ばしたというより生えてきたような作、タテに連なった玉数珠のようなもの、どしっと安定したフォルムの陶枕のようなもの、そしてフクロウ。陰翳深い景となったのは写真家のお手柄である。
陶枕とフクロウはそこに静かに佇んでいるといった体だが、玉数珠と金平糖のような作品は、かたちになるかたちというか、いかにも動きが感ぜられ、なにものかに生成変化せんとするその刹那、途上というものを思わせる。さらに独りよがりの感想をいえば、陶枕とフクロウは、いわばそれ自体でありてあるもののように思われ、金平糖と玉数珠は生成変化してゆくもの、すなわち移りゆくこの世の万物を示唆しているように見えてくる。「ある」と「なる」の対比を一望しているような気になってくるのである。そのように配置したからかもしれないが…。ミネルバのフクロウのように、古来フクロウは知性の象徴であり、哲学的にも、神的にもその智慧を称えられてきた。写真のなかでそのフクロウが、生成変化して止まないこの世界を、悪ではなく善へと向かう景色として眺めているような図に思われてくる。なんだか深読みしすぎのような気がしてきたが、牽強付会でいうのではない。彼女の作品を見てのパトスが言わしめるのだろう。そういう力が彼女の作品には宿っているということなのだろう。
大江志織、1985年生まれ。前回展が4年ぶり、今回が3年ぶり、4度目の展となる。本当は隔年ぐらいでやっていただきたい人なのだが、二度の出産が重なり、当方としてはままならぬ仕儀となった。しかしめでたく彼女は無事二児を得たわけである。こっちのほうが一大事であるから仕方がない。過去にも書いたようなことだが、人は美しいものを見て、それに満たされるとき、生むということを欲する。子を生もうとするのは、エロースの初歩、原初的なすがたである。そしてまたエロースは、美についてきびしく吟味されるより高い次元においても、生産や制作を励ます一大パトスなのだと思う。それは美の感激による能動的なものであり、その能動性が美しい生産と制作に結実するのである。芸術も学問も、法律をつくることも、街をつくることも、根っこのところに美のインスピレーションを宿しているべきだと思う。エロースはつねに美とともにあるのである。
大江の作るものには、あっけらかんとした、天然に健康的で、かつ高められたエロースの発露があると思う。ゆうにやさしく愛らしいものも出してくる。今展ではインターバルが長かったので、作りて習うではないが、写真のような作品の他に、過去のいろんなシリーズのおさらいのようなかたちの構成も考えてくれる?といったリクエストをしている。要するに初心を新たに、今後のさらなる飛躍と継続を願っているのである。久しぶりに面目躍如の展を期待して…。何卒ご清賞賜りますよう伏してお願い申上げます。-葎-
大江志織展Shiori OHE
Towards the Higher Dimension of Eros
8/24 Sat. 〜 9/8 Sun. 2024