岸田匡啓展…、紅旗西戎(こうきせいじゅう)はわが事にあらずという。藤原定家の言葉である。おのれの日常もそうありたいと思うが、なかなかそうはいかない。政治向きの事柄に関心が行ってしまうのである。浮世の事は笑うに如かずというが、人は政治が、自身の内面のモラリッシュなところとは反する方角に向っていると感じるとき、なんとなく鬱屈した面白くない気持ちをいだくものなのではないか。筆者自身に照らしてそう思うのである。
一昨年の夏、ある政治家が選挙のさなかに殺された。あのようなことは現職宰相でいうと、九十年以上昔の犬養毅(つよし)以来である。椿事である。殺った奴はバカな野郎としか言いようがないが、筆者はあんなふうに殺された政治家が、不遜な言いかたかもしれないが、憐れでかわいそうでならなかった。国事のためにあんなに奔命、奔走していたのに、最期がこれかと、深い同情を禁じ得なかった。政治家は見物からその”人”を見られる。まして宰相ともなれば、衆口ならぬ衆目金をも熔かすほどに見られ、いろいろ言われる。見物は残酷である。彼はそれによく耐えたのではないか。例えば彼の前の、別の党の宰相は、二人続けて目も当てられないような無惨な姿をさらし続け、馬脚をあらわにしたのではなかったか。あれは誰の目にも明らかだったのではないか。彼らは命永らえている。善き人は命短しということなのか…。
立派な政治家の資質とはどのようなものをいうのだろう。先ず第一に賢い人であろう。すなわち先見の明、識見を持つ人、欲をいえば智慧も兼ねそなえた人でこれからの先の事をどうすればよいのかという判断を、俯瞰の高みから下すことのできる能力と胆力をもつ人のことである。第二に、自身の言葉で、考えを国民に知らせたり、説得する能力があるかどうか。うわっつらのレトリックのことではない。説得のためのロゴスを深く蔵しているかどうかである。機知、ユーモアにも富んでいてほしい。第三に、金銭の誘惑に負けない強さを持っているかどうか。しかしこれ一事を絶対条件のようにやかましくいうのは如何かと思う。清く正しいだけの人は何もできない人のことである。金や酒色に弱いのは人間一般の悪徳であって、要はここ一番で国益を損ねたり、売ったりしないような強さがあればそれでいいではないかと思うのである。私たちは自分を棚に上げ過ぎなのではないか。そして最後にもっとも必要なもの、それは愛国心である。ナショナリズムというよりパトリオティズム(patriotism)である。政治家がこれを欠いてはほかのすべての条件がそろっていてもなんにもならないだろう。愛国心は政治家であるための魂なのではないか。愛国心といえば短絡的に悪い連想をする人たちがいる。教育の影響である。そのような思考回路を植え付けられてしまっているのだろう。そろそろ愛国心という言葉が、変に曲解され利用される目的が奈辺にあるのかということを、怪しみ考えるべきときが来ているように思われる。以上めったにお目にかかれない立派な政治家のお話である。
ここのところ戦争が止まないが、私たちのところへも連鎖して火の粉が飛んで来ないかと心配になってくる。戦争は政治の一形態であり、昔からそして一昨年来の戦争などは、やはり独裁専制の政治が始めるのである。独裁的支配の体制だけが、拙速に戦争を始める危険性をもっているからである。そういう意味で政治というものは恐ろしい。善悪正邪こきまぜた世界の政治史を見れば、パラレルに交互に戦争と平和があるというよりも、戦争と戦争の間隙を縫うように、つかの間にかろうじて平和がやってくるといった図に見えてくる。
お話変わって、他方一面では、戦争は破壊と創造を、移動と混淆をもたらしてきた。新たな異種の文化をもたらすという一面もある。かの秀吉の始めた戦争は俗にやきもの戦争とも呼ばれている。多くの朝鮮人陶工が連れて来られた。戦争による移動と混淆である。これなくば、唐津は存在し得なかっただろう。唐津というやきものは、政治と戦争のダイナミズムによって、混沌の中で奇跡のように結晶化したように思われる。写真の岸田匡啓の盃は、飛青磁黒象嵌唐草彫輪花盃と銘打ってある。思えばこれも政治と戦争のどうしようもない悪の一面と、なにか美しいものを求めようとする人間精神とがからみ合った所産といえる。岸田という個が、歴史的連続の末に生した一つの美として見えてくるのである。-葎-
岸田匡啓展Masahiro KISHIDA
Evil and Beauty
9/21 Sat. 〜 10/6 Sun. 2024