近ごろ毎回録画するテレビ番組がある。NHKの新日本紀行という昔の番組である。昔といっても四五十年前である。ついこの間といってもよい。当時の各地の人々の生活とか、慣習や文化を紹介しているのだが、思わず見入ってしまう。ナレーションもアナウンサーが淡々とやっており、変に芝居がかった話しぶりでないのがいやらしくなくて好感を覚える。それと、当時の人々の顔つきが今とは違うように思う。なんというか見ていてほっとするのである。どこか落ち着きがある。この半世紀ほどでこんなに変わるものかと思ってしまう。あの顔は、いまだ携帯を知らない顔である。土地というものに狂奔することになるバブル以前の顔である。ほんのちょっと前というのがおそろしい。昭和の四五十年代の情景である。
往時と今と、なにがどう変わってしまったのか。個別にあげつらってみても詮なきことである。今の有様を見渡せば「これあるかな」と思うより仕方がないのではないか。このこれあるかなの世界、もしも番組の登場人物が浦島太郎でやって来たら、どのように映ることだろう。免疫不全を起こして心身に変調をきたしてしまうのではないか。しかしそれは今人の私たちとて同じことかもしれない。落ち着きを失い、漠たる不安を抱き、いよいよ砂つぶのようなアトム的個人に分解され、電気仕掛けの不毛な孤独をかこち、急くように何に乗り遅れまいとしているのか、心の平穏をかき乱されている。端末のもてあそびと中毒がそれに拍車を掛ける。自分にしてもそう思う…。そしてほっとできるような番組をさがす自分がいるのである。しかしそれでどうなるのか。ノスタルジーに浸れても所詮いっときのお慰みに終わるのである。
大徳寺真珠庵の本堂には、一休禅師の遺髪を蓬髪に植え込んだ坐像が安置されている。その像にはべるように、五百年以上をけみした二幅の軸が左右に掛かっている。右軸に「諸悪莫作(まくさ)」左軸に「衆善奉行」と大書してある。重要文化財の禅師の遺墨である。もろもろの悪さを働くな、もろもろの善きことを行えという当り前のようなことが書かれてある。この教えは七仏通戒偈(げ)といって、釈尊以前の過去世に現れた六仏と、釈尊を加えた七仏すべてが共通の戒めにしたものという。だから「通戒」というのだろう。釈尊以前の六仏は知らないが、おそらくミュートス的諸仏なのだろう。七仏通戒偈は、七仏でさえ心底に銘記せねばならぬものなのである。当り前ではないのである。一休禅師も別して力のこもった大文字で筆を揮っておられる。その淋漓たる墨痕に気圧されて、このたったの八字で、釈尊が説こうとしたすべてが片づくような気がしてきて感動を覚えるのである。
正邪善悪美醜あるいは真善美という。これらはたがいに重なりあったりして複雑な様相を見せたりするが、だからそれで人は迷ったり、過誤をおかしたりするのだろうが、またそれがゆえに、洋の東西を問わず、善という価値が最勝であると説かれてきたのではないか。善は他の諸価値、諸徳を包摂し、統合して、最終的に行き着く先の目的地だと、何千年来説かれてきたのではないか…。そういった歴史上の「善き人」たちのせっかくの教えに対し、私たちは縁無き衆生に堕しているように思われる。今の「これあるかな」の世を思えば、だめだこりゃと匙を投げられそうである。悪心をおこすなということであろう。自ら心を浄く保ち、自他の悪心にそそのかされるなということであろう。そして善を遠くに望めということであろう。これあるかなの世には、Getting Oldの筆者にしても絶望感にかられるときがある。Young Peopleはどうなのだろう。平気そうな顔して大丈夫だろうかと案じられる。いや、しかしそれでも多くの善良で謙虚な人たちは、いつの世にもこの世にもいるはずである。筆者は我を棚に上げていえば、いつもそのような人たちの味方でいたいと思うのである。
いつもの伝で作者そっちのけの文になってしまったが、三年ぶり二回目の富田啓之展である。彼は前回展で自身の作品を、花火のように打ち上げてみたいと言っていた。花の命は短くてというが、花火は刹那に花開き、刹那に消えゆく。はかない無常の極致のような空中の花だが、彼の作品は、その刹那を固定化し結晶化した、座辺の花火のようなものだと思う。そのような作品だと思う。再度のお願いを通させてもらった所以である。何卒のご清賞を伏してお願い申し上げます。-葎-
photo:Takeru KORODA
富田啓之展Hiroyuki TOMITA
Longing for Permanent Fireworks
5/31 Sat. 〜 6/15 Sun. 2025