筆者は日ごろつくづく思うことがある。人がものを生す、作るということはどういうことかと。困難と悩ましさがあろうとも、制作、建設、工作、文章といったものに向かわせるものは何なのかと。筆者の日常、見ている範囲は狭いのだが、陶芸も結構、それを生すには真剣な、心身ともに消耗的な傾注と没入が必要なのだろうと見ている。陶芸も「ない」への働きかけによって、ものを生みだす行為だからである。
陶芸は、プロフェッションとしての職人的、分業的なアスペクトを持っていて、実際その職域には職人層が、非常に薄くなっているがまだ残っている。職人仕事で衣食している人がいるのである。その仕事は注文主がいて、請負額、納期が定められるといった、定収入ではないにしても、まあカタギ的な色合いの濃いものといえる。筆者は腕と意地の立った職人に出会うと、芸術家には抱かない満腔の好意と敬意を覚える。名人と思われる人も、まだこの世に多少は棲んでいるのではないか。
一方で陶芸の世界にも、だれに頼まれもしないのに作る人がいる。彼ら彼女たちはおのれの言いたいこと、表現したいことをなんとかして現物化、可視化しようとする。いわゆる作家と呼ばれる人たちのことである。職人と作家のボーダーラインは、自称、詐称組の多いこともあって、よくわからなくなってきているが、カタギとヤクザ(失礼!)、あるいは健康と不健康という区別の目で見ると、双方にピンからキリまでおられるにしても、わりとはっきりしてくる。
唐突だが興に乗るということがある。職人仕事も興に乗ってくるということがあろう。そして反復と修練のなかで、ある日絵付けの筆が騎虎の勢いで走り出したり、ロクロの技が水際立ったところに達したりすることがあるのだと思う。しかしまあ今日も今日とて南無阿弥陀仏といった体で、さて仕事にとりかかるか今日も、といった嘆息混じりの日々が職人の日常だと思う。それは健康といえば健康的な世界である。
一方また、作家あるいは芸術の人は、その興に乗るまでがなかなかで、仕事場に足踏みすることさえ悩ましく、そこに座したら座したで、逼塞してしまい、まんじりともせず夜を明かすこともあるように思われる。しかし何かが降りてきて、興に入り興に乗って、制作にかかることができればしめたものである。上々なのである。冒険と歓喜の特権的時間が始まるのである。
思うに創作とか芸術という人為は、アトム的個人の極致のところでなされる行為だと思う。その人にしか見えない感じない見えないものを直観し、そのようにしか、そうとしかその人には見えないようなものとして表現されることがある。ただ、そうして表現されたものが他者に享受されるかどうかは、そこにものいう抽象が立っているかどうかにかかってくるとは思うが…。
写真の大江志織の恐竜と黒タコは、互いの目線が合致して絵になっていると思う。存在感如実で彼女独自の造形だと思う。恐竜は撮影用に四点来た。かなりな大きさである。作りながら彼女は、本当はいろいろなイキモノを作ろうとしたのに、作っている内に全部恐竜になってしまってと言っていた。なってしまってというところに、筆者は彼女の、直観からのジャンプ力というか、内奥から流露する即興性を感じさせられてしまう。興に乗っていたのである。彼女の世界にはなんだこれはといったデフォルメされたイキモノが登場する。しかし異形であっても美しいラインを生得にそなえている。それらは彼女天然のパトス、受容感覚といったものから出てくるものだと思う。彼女は彼女独特の、万象に対する尺度のようなものを持っているように思う。彼女にはそう見え、そう聞こえ、そう感じるという無二の尺度である。それはアトム的個人の極北から発せられる。しかしその”ものさし”は、ものいう抽象と与って、彼女自身はからずもといったかたちで、享受側と共有されるものとなっているように思われるのである。すなわち彼女の作るものは、ほめものなのである。大江志織、第五回個展であります。何卒のご清賞を伏してお願い申し上げます。-葎-
大江志織展Shiori OHE
Acceptable Atomic Individual
5/30 Sat. 〜 6/14 Sun. 2026




