人はだれでも本当に言いたいことが多少ともあるのではないか。もし昔の人が今の世を見るならば、この娑婆は末世末法の行きつくところまで行っており、もはや救いがたしというのかもしれない。筆者なども、別にニヒリスティックにならずとも、遠からず収拾のつかなくなる世界がやって来るのではないかという予感に戦(おのの)いたりする。もっともこの国に関していうなら、今のところどうしようもない混乱に直面させられてはおらず、かろうじて治まっている御代(みよ)というか、ぬるま湯的日常が続いているように見える。しかしこれも一つのエピソード、仮象に終わるものなのかもしれないのである。
ご大層はさておき、人はそれぞれインディヴィジュアルに、言葉にできずとも本当に言いたいことがあるはずである。とはいえである、本当に言いたいことなど人間そんなにあるわけがない。指折り数えてみても、そんなにはないことが自分にもわかる。たとえば、正義と聞けば気をつけよ。春秋に義戦なし。機械あれば必ず機事あり。平和のときの平和論。満つれば欠くる。人みな飾ってものいう。神々のこと。美の秘儀にまつわること。ちょっと低いところでは、所詮この世は色と欲。ない袖は振れず…。などだが、別に思想でもなんでもなく、短絡的に思い浮かぶだけである。これらに尽きると思われるのである。あとはヴァリエーションである。
芸術の人にも本当に言いたいことがあるはずである。これらの作品であなたは結局、なにが言いたいのと聞きたくなるときがある。身も蓋もない不作法な問いである。しかしこのような問いであってもそれが真摯な問いなら、芸術の人は耐えねばならないのではないか。問う側にも、作者との触れ合いというか、親身な共同を持ちたい、作品に与(あずか)りたいという思いがあるかもしれないのである。もっとも本当に言いたいことなどその場でにわかに応答できるはずもないとは思うが…。芸術の人の本当に言いたいこととは、ロゴスの世界とは別種の、言葉にならない言語道断の世界からの抽象と表出によって了解すべきことなのだろう。しかしそれでも本当に言いたいことは、いざという時のために芸術の人の心底にあらねばならないのではないかと思うのである。
写真の和田的(あきら)の作品は、蓋もので水指に見立てることもできるだろう。最上質の白磁である。もとの成形は、型ではなくロクロである。削りというより、彫琢ともいうべき力業がなされている。蓋はみっしり寸分たがわず合わさり、こゆるぎもない。手取りはかなり重い。しかしなぜか違和感はない。蓋に蟻地獄のような穴がうがってある。裏返せばこの穴は朝顔状のかたちになっているのがわかる。幾重にもめぐる胴のリングというかフィンは、絶縁体の碍子のような風情である。この作、内部でなにか反応のようなものを惹起させる装置のように見えてくるのである。ある種のグラヴィティーを帯びてなにかをいざない、吸い込み、内部でプラズマ現象のようなことを引き起こすのではといった印象で迫ってくる。
彼は早めに作品を送ってくださる人なので安心するのだが、写真の作も余裕をもって到来した。その間、消息の遣り取りをしてきたのだが、ふとこの作のタイトルがなかったことに気付き、尋ねて返ってきたのが以下の消息だった。
「さて、題名の件ですが、白器”すー⤴っ”は、目には見えない感覚や感情を集める器として制作しました。その意図を、作品のタイトルにも反映したいと考え、あえてオノマトペを用いて、目には見えないものが、器の中にすーっと吸い込まれていく様子を感じていただけるよう”すー⤴っ”と名付けました。また、外側に施した彫りは、そこに少しずつ蓄積されていく感覚や感情を表しています。作品のコンセプトに忠実に制作したいと考え、蓋には穴を開ける形状としております」。
作品のタイトルは、ときに見物側にインプレッションの詩的な拡がりや深まりを促すことがある。飄々とした銘に彼の意外な一面を窺う思いがした。少しくすかされた感じもしたが、筆者のくだくだしい作品評なんかより、よほどこのほうが腑に落ちるような気がする。作者自身の書き言葉はまた格別なのである。そして作品を凝視すれば、彼の本当に言いたいことがおぼろげに察せられてくるのである。-葎-
白器〝すー⤴っ〟高15.8cm.tall 径20cm
白器〝すー⤴っ〟高15.8cm.tall 径20cm
白器〝すー⤴っ〟高15.8cm.tall 径20cm
白器〝すー⤴っ〟高15.8cm.tall 径20cm
白器〝すー⤴っ〟高15.8cm.tall 径20cm
photo:Takeru KORODA
和田的展Akira WADA
Something Deep from The Soul
10/31 Sat. 〜 11/15 Sun. 2026