人の心を動かすようなものを作れる人は、やはり少数者に限られるのだろうと思う。もの生す人は、制作にとりかかる前、なにをどのように抽象し、この世に現前させるかという生みの苦しみを味わう。集中し、想起などしつつ、宙を泳ぐ魚をとらまえるような時間を過ごさねばならないのだろう。それは神がかりというか、なにか魔性のものに憑かれるのを待っているような感じなのではないか。もがきあがき苦しむのである。そんな苦しいことに駆り立てるものはなにかといえば、やはりなにか美しいもの、真に迫ったものを抽象したいと自ら思うからであろう。それは孤独に、独力でなされる、果てのない自力行のようなものかもしれない。しかし筆者は、自力のみに終始して、作品というに価するものが成し遂げられるのだろうかと疑問に思ったりする。やはり芸術の人は、なにかが降りてくるのを渇仰する傾向がある。降りてくるものに自身のパトスがはげしく揺すぶられて、それから制作の現場へ向かうのではないか。そして憑かれたように制作に没入していくのである。
英語のデーモンは悪魔という意味だが、古代ギリシャ語のダイモーンがもとである。原義はデーモンというより、取り次ぐ者、媒介者といった意味である。神々と人間との間を取り持つ、人間でもなければ神でもないものと考えられた。ダイモーンというのは、すなわち人間事の万般、善悪正邪美醜のこと、その行為、言動、祈りとか願い、生け贄などを神々に取り次ぐ。そして人間に対しては、神々の命令とか処断、返礼を取り次ぐ役割をするというのである。神と人間とは隔絶して離れており、それは絶望的な距離であり、直接に神と交わることなどかなわないということから、一種のものの怪のような存在だったダイモーンに神との仲介役を担わせたのだろう。いわば神との一体感を望んで、その絶望的な中間の間隙を埋め合わせ、そこを充実させ、存在の全体がひと続きになるようにダイモーンを持ってきたのだと思われる。これは私たちの昔からの考え方にも共通するものがあるように思われる。(ダイモーン的人間はこの世にもいるがそのことをいうのではない。)
ただしダイモーンは悪さもすればいいこともする。神々を横目に見ながらいたずらに人間を弄んだり、堕落させたり、試したりするのである。しかし一方で、神々すなわち不死なるものに人間を近づけたりもする。美についてもそうである。エロース神ともいうが、どちらかといえばエロースは神というよりダイモーンの一種だろう。エロースも人を惑わす。美への道程のなかで人間を試し、きびしい試練を課したりする。エロースは美とともに常にあり、人を永遠の美への冒険に誘うような素振りをみせる。しかしあちこちに陥穽を用意するのである。その陥穽は次元の低いエロースの領域にとくにたくさんあるようで、人はたいていその落とし穴にはまるのではないか。しかし神々の愛顧するもの、それを取り次ぐのがエロースであり、偉大なるダイモーンなのであろう。芸術の人は、すべからくエロースの初歩から高次へと登っていくべきであり、エロースの取り次ぎにかなうようなもの、永遠を垣間見せるようなものを、いつも仰ぎ見るというか渇望していなければならないのではないかと思うのである。
高柳むつみ展も回を重ね九回目となる。初展は大学を終えて間もないまだ二十代だった。その時の印象は強烈で、技法、構想ともに神がかり的なものを感じさせられた。磁土による数ピースのパーツをロクロで成形し、ミリ以下の単位であるべきところにアサンブラージュし、窯の中でこゆるぎもなく釉着させ、さらに組ひもが作品をめぐり通り、全体が組ひもで結束されて成立しているかのように見える作品だった。アクロバティックだった。筆者はよくこのようなものが出来たなあと茫然として眺めた覚えがある。怖いもの知らずのなせる業(わざ)かとも思えた。筆者は、彼女が作る渾身のものは、神気ただよい聖性さえ帯びているように思われる。神々の身の回りに置かれ、神々が嗜好するもの、愛玩物、ときに使用するところのもの、彼女の作品は、ダイモーンエロースの吟味と取り次ぎにかなうもののように思われるのである。エロースの嘉(よみ)するところにいつまでもいてほしいと思うのである。-葎-
photo:Takeru KORODA
高柳むつみ展Mutsumi TAKAYANAGI
Medium between Gods and Human
10/3 Sat. 〜 18 Sun. 2026




