思うに八木一夫という人は、せっかちな天才だったと今にして思う。八木は自身の作品を、一篇の詩へと昇華せんとして、音楽や文学、批評、韜晦(とうかい)、諧謔とかユーモア、古典の翻案といったところを渡り歩いて、そういった形而上の目には見えないものを作品に映し込もうとして、空中を泳ぐ幻の魚のような幽かな、ほんの僅かなきっかけをよすがとして、次から次へと作品を生み落しながら移動していった。八木の作品世界は総合的な観を呈して壮観である。享年六十。書き残されたものや、いろいろなエピソードを見聞きすれば、生き急いだのではという感を禁じ得ない。しかし六十はあの天才にとってこれからというときだったろう。無念だったと思う。還暦の八木ならこれまでの仕事を顧みて総括し、個々に否定肯定の作業を加え、すなわち止揚を行い、作品世界をさらに広く深く、新たにしていったにちがいないと思うのである。七十にして心の欲するところに従いて矩(のり)を踰(こ)えずというが、八木なら七十へ向ってさらに高度を上げて行ったのではないか。老成していったのではないか。向上しつつ老成の境域へ入れる人は稀人である。もし永らえていれば、そこは八木にとってスローダウンできる、より疲れの少ない、融通無碍に遊べるような世界であったろうにと思われてならない。
創作の創にはキズ、キズつくという原意がある。八木は、いわば日々自傷行為に明けくれ、満身創痍でものを生していたのではないか。八木は外の世界へ自分を投げ出し、そこで深く浅くキズを負い、外気のなかでキズを負うことで自己再生していたのだと思う。それは多分に感覚的だが、そこから思惟を深めて、感覚からおのれの心魂にまで達するキズとなしていたのだと思う。そのキズを、インスピレーションを求めて、白昼あるいは夜な夜な彷徨せざるを得なかったのである。自身の作品に新味新手を加え続けるために…。八木はこう言っている。「私には自己規定はおろか、現象的に私自身が固定化を始め、私をとりまく外気が、そのような(固定化し始めた)私と隔離していく気配を感じとったとき、私は自分自身とさえ離別したくなる(中略)…私と外部との淀み(不本意なものとしての)、それは実は私だけの淀みにすぎないのだが、私はそれを感じとるとじっとしてはいられないのだ。外気が私を傷めてくれぬ今は(中だるみを感じていた時期だったようだ)、わが身を振動させ、ねじり廻しでもしないかぎり、外気とのきしみは発生しないのである。痛むことによって私は、はじめて私自身をとり戻し、知覚することができる…」と。
作家(本物の)という稼業はつくづくしんどいものだと思う。じっとしてはいられないのだ。残酷な見物の期待、それを意識する自分、迫り来る〆切、それらと正対しながら、作品の移動と変化をおのれに無理強いし、あがきもがきながら、遁走するにも他にすべもなく、そんな日常の継続に耐えねばならないのである。しかし苦あれば快ありである。八木は人生の途上で突然の断面を見ることになったが、それまでの生は如何(いか)なものだったか。筆者は収穫多き豊穣なものだったと思うのである。八木はただ生きるためだけに生きたのではなく、神に命じられたかのように、一心不乱に限界まで自身の詩想を作品に謳い上げようとし、おのれの真骨頂をこの世に刻したのである。その間、達成感とともに歓喜や浄化が訪れる至福のときも数え切れぬほどあったと思う。だから以って瞑すべしなのである。八木一夫の芸術の人としての道行きは、だれも踏めない八木一夫一人(いちにん)のものだった。まこと仕合わせな生涯だったと思うのである…。
本展の加藤委という人も、天からのギフトに浴する少数者の一人であると筆者は思っている。せっかちなタイプではないと思うが、天才肌の人として八木と同じような苦しみを苦しんでいるのかもしれない。もう突破し難いと思われるドン詰まりの気分に沈むときもきっとあるのだろう。しかしそこを乗り越えての今の彼がある。そして彼とて彼一人の道を往くしかないのである。もの生す人は作ることしか生きている証は立てられない。釈尊はこの世は苦界であると、しかし甘美でもあると涅槃の前に説いたという。人生は短くも長い。加藤委にはもう一段の奮起を心底願いながら、遠くに彼のことを察しているのである。-葎-
photo:Takeru KORODA(茶碗を除く)
加藤委展Tsubusa KATO
Fertility and Drought
8/23 Sat. 〜 9/7 Sun. 2025