人は自身は安全な場所に置いて、他を難ずるのが大好きなようである。たとえばそれまでさんざ持ち上げていたくせに、ちょっとでもなにかあれば手のひらを返すように貶めるということがある。他を難じて得意の人間は、まあたいていまじめ人間で、自分を清廉潔白と思っている。水に落ちた犬は打たねばならぬという。今どきの芸人やタレントはその最たる被害者ではないか。引きずり下ろそうと待ちかまえている見物がいる。しかしもともとアウトローの芸人に修身道徳を求めてどうしようというのか。芸が面白くなくなるではないか。芸人も苦しがっているだろう。芸人は不品行でいいのである。入ってくる金はよろしく散財すべしでいいのである。スキャンダルもまき散らすのである。あとは芸でものをいえばいいのである。政治家だってそうである。芸人とは趣きを異にして、それなりの徳とか倫理のようなものが求められるのだろうが、彼らとて浮世に生きる人間である。いいことも悪いこともするだろう。清く正しいだけの政治家なんてなんの役にも立たないのではないか。そんなことわかっているはずなのに、私たちはちょっとしたことで彼らを葬ろうとする。マスコミはその尖兵である。そして政治の場において、政治家同士でおたがいを裁きあう法廷弁論みたいなことばかりやらせているのである。アホらしくなってこないだろうか。政治家も情けないが、彼らは私たちが一票を投じ、大げさにいえば私たちの命運を託した代議士であろう。彼らには権力がある。あんまり吊るし上げすぎると恨みを買う。買っていないというならあまりにも鈍感である。恨みはいつか晴らされるものである。ルサンチマンから政治をやられたらたまらないのである。私たちも自問すべきなのではないか。汝に彼を石もて追う資格ありやと。
私たちはほめては落とすということを気まぐれにやりすぎである。もう少しほめるときも落とすときも、覚悟と責任のようなものをもって処すべきである。人はほめられてよくなる。よくなれば、ほめたほうもほめ甲斐があったというものである。えらそうな気持でいうのではないが、芸術の人は殊にほめ甲斐がある。なぜなら彼らはこと制作に関してはつねに不安な存在だからである。ほめればその表情は一変して明るくなることがある。そんなときやばいと思ったりするが、言った言葉は呑み込めない。だから自分に言い聞かせねばならない。ほめるなら覚悟をもってほめにほめるべしと。そしてときには作者にとって耳障りなことでも率直に伝えるべしと。これが筆者のような者がとるべき態度であり良心ではないかと思ったりするのである。すなわち健全な正気の批評精神をなるべく持していたいと思っているのである。
今展の鈴木大弓は、弊館では初お目見えとなる。大きな弓と書いてヒロユミと読む。二年ほど前、たまたま信楽のあるギャラリーで手にしたのが彼の青磁の兜小鉢だった。野に咲く花にふっと呼び止められるような感じがして持ち帰った。家で使っているのだが、使うにつれ自然と日常に馴染んでくる。月並みな言いようだが、用に過不足、抵抗感なく、それに美しいからだと思う。飽きが来ないのである。筆者はこの小品に、なにか彼の片鱗をうかがわせるものを感じた。片鱗から入って行ったわけである。そしてこれがまぐれ当たりではないだろうと思った。ひょんなことから出会った青磁の小鉢に始まるご縁である。初個展の人にはいやがうえにも期待感が高まる。他にも心にくい片鱗が一片でも多く到来するのを鶴首しているところなのである。
本展も何卒のご清賞を伏してお願い申し上げます。-葎-
鈴木大弓展Hiroyumi SUZUKI
Like The Beauty of Wildflowers
10/18 Sat. 〜 11/2 Sun. 2025